No.27 ドロドログチャグチャ

チボー家が面白い。人の内面描写をここまで繊細にあつかった作品を他にみたことがない。卑しい驕慢心、純粋な感動、瞬間的な打算やプチ後悔、それらは複雑にからみあって、現れては状況に消化されたりされなかったり、たいしたきっかけもないのに数秒前と真逆のベクトルに暴走したり、そういうごちゃごちゃした「うねり」が時間にそって走っている状態こそが「ココロ」であり、その人の「人格」とも呼べるものである。そういう様々な要素で複雑に構成されている「生きた人間のリアルなココロ」をとんでもなく高いレベルで表現出来ている作品なのだ、この「チボー家の人々」は。 あまりにも細かく、正確に「ココロ」を描くものだから、慣れるまでは登場人物全員が卑しい、自分勝手な、小人物にみえてくる。しかし実際人が瞬間瞬間に考えていることなんて、全部あけすけに文字にしてしまえばとんでもなくわがままで矛盾していて信用のならない汚らしいものだらけだろう。この登場人物たちは決して抜きん出て卑しい人間なんかではなく、むしろ現実世界では誠実で純粋な愛すべき人間の類なのだとおもう。ただこういう全ての気持ちの動きを包み隠さず書かれてしまったため、こんなに痛々しい惨めで卑屈な感じに見えてしまうだけなのだ。自分の全ての気持ちの動きを文章化したものを他人に見せることを想像してほしい。全ての考えをだ。普通ならばぞっとするはずである。

この小説を読んで「人の汚らしさ」ばかりに目がいってしまい、「もっと人の心は美しいモノだ」なんていってしまうような人は、本当の「美しさ」に気づくにはまだだいぶかかるように思う。ドロドログチャグチャしたものを全部飲み込んでしまい、その「負」の存在をきちんと受け入れない限りはいつまでも「うそくさい」世界から外に出られない。内面にドロドロを内包した「個」が集まって「集団」ができ、その「集団」というのは「個」どうしのドロドログチャグチャした複雑な関係で構成されている。つまりこの世のあり様というのは「ドロドログチャグチャによるドロドログチャグチャ」なのだが、愛とか感動とかいうのはそのドロドログチャグチャの中で、ある観測者がある角度でピンポイントである部分に注目したときに「キラリと感じる」ことができる「ドロドログチャグチャのひとつの状態」のことなんだと思う。それは観測者との相対的な関係でのみ成り立つ「キラリ」であり、絶対的な「ピカピカボール」が愛や感動として転がっているわけではない。 自分や他人の「卑しさ」や「情けない気持ち」をただ一方的に嫌い、排除しようとしてしまう人は、あるはずのない「ピカピカボール」の存在を信じてやまない人なんだとおもう。まさかドログチャこそがそれとは気づかずに。   ・・・と、そういうようなことを改めて真剣に考える機会を与えてくれる、ステキな作品「チボー家の人々」の紹介。

2002-09-25-WED

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送