No.88 トラという現象のとりわけ気持ちいい部分

どうもミミのようすがおかしい。ひどくにゃんにゃんいってそこら中の匂いをかぎまくって、訴えるような顔でヒステリックになにか言ってくる。 さぽ曰くおととい使った毛布のひとつ(公一さんが使ってた黒のチェックのやつ)がトラのお気に入りだったらしく、昨日片づけないでおいたら、なんとミミはずっとそこにいたのだそうだ。 で、今日になってようやく片づけたら、ミミとしてはトラがいなくなったような感じでうんと悲しくなって、トラを探しまくってるのでは?と。 ありゃー。 猫のちっちゃい頭では「記憶」とかそういうのは多分ひとがいうところの「記憶」のようにしっかりしたもんではなくて、一瞬一瞬状況に応じてひらめく「気分」のようなものだとおもうの。 だから先月のある時から「トラがいなくなった」という事実はミミとしては「変化したその時点」こそ大イベントであったにせよ、しばらくすれば「トラ」という現象にたいする認識すら、きっかけがなきゃ思い出さないひとつの曖昧な「気分」でしかなかった。 あったかい部屋で、ごはんも毎日もらえて、ミミとしての生活に「不便」がなければ全く使用しなくても問題ないひとつの「気分」。

ところがおとといからトラの匂いがたっぷり染みついた毛布があらわれた。 これはミミにしてみれば「トラ」である。 正確にいえば「トラという現象のとりわけ気持ちいい部分」である。 「トラ」という形而下の存在をミミはおそらく認識してないとおもう。 ぼくら人間が意味づけるところの「トラ」という個がいて、その「トラ」がいろんなところに自ら動いて、たまに自分に接触して、快や不快をあたえるなんて構図はミミの中にはないとおもう。 ミミのなかでの「トラ」の存在とはきっと、前後何分かの「気分」のなかに「トラ」という現象が感じられたか感じられなかったか、それだけだと思う。 だから「ここ一ヶ月見あたらないなぁ。どうしたんだろう?」なんて考え方はしない。 逆におとといのように毛布が急に登場しても、「懐かしい!トラだ!」なんてことは感じないと思う。 ただただその匂いから「トラという現象のとりわけ気持ちいい部分」を感じて、「ここにこうして寝ていたい」と感じるからそうしているだけなのだとおもう。過去も未来もなく、以前と変わらず「トラという現象のとりわけ気持ちいい部分」を心地よく感じているだけなのだとおもう。  とはいってもやはり現実に長い時間ミミは「トラ」を感じていなかったのだから、そこには人間のいうところの「懐かしい」みたいな種類の「揺れ」はあったのだろう。 だからその証拠にこんなちっちゃい頭のくせにこんなに人間のように「感情的」に「とりみだして」いるのだとおもう。 「だとおもう」「だとおもう」の連発で勝手な思いこみを確立してしまったぼくらは、その「毛布=トラ」を出さないわけにはいかなくなり、すぐにミミのお気に入りの場所に置いてあげた。 ところが! ミミはなんとその毛布をよけて、ソファーの反対側で毛繕いをはじめてしまったのだ。 なんてことだ。 やっぱりこちらが思うような感覚は、人間以外には全然通用しないのかなーなんて思って、なんだか変に晴れ晴れとした気持ちになってしまった。 猫を見てると、どこまでが「生き物本来の素直な行動」なのかがわかってきて面白い。 自分が心から、純粋にそうしてると思ってた行動が、実はなにかしらの記号に支配されて植え付けられて育った実に「人間的」なものだったと気づかされるとちっと驚く。 だから「嘘臭い人」にはすごく敏感になる。やらんでいい感情表現の大売り出しみたいな人には心底ウンザリする。 反対に不作法でも、そっけなくても、素直に感情を表現できてる人にはどうしても心惹かれる。 

・・なんてなことをもっともらしくかたった直後でなんなんだけども、寝る直前になってふとソファーに目をやると、なんとミミがトラ毛布にうんと幸せそうにくるまって寝てるでないの!! ありゃりゃ!! いつもはぼくらの真ん中にはいってくるのに、どう考えてもそのほうがあったかいのに、ミミは少々寒くても「トラという現象のとりわけ気持ちいい部分」の方の心地よさを選んだのだ。 く〜〜〜〜! 結局さ、こうやって人間的に、感傷的に見ちゃうんだよね、最後には。で勝手に気持ちよくなっちゃうんだよね、ぼく。 なんだかなー。 なにやらあっちいったりこっちいったりして「結局何なんだ?」てな感じになってしまいましたが、所詮人間様も【一瞬一瞬状況に応じてひらめく「気分」のようなもの】に流されていってるに過ぎないってことの象徴的な事例だとおもって許して下せー。 「まとまらないものをそのまま出すってのも大事だ」という糸井さんの意見に一票!

2002-11-25-MON

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