No.139 好みのタイプを聞かれたら・・・

いや〜、今日は掲示板がもりあがってうれしかったな〜。ひさびさに活気があって仕事の合間にチェックするのがすごい楽しかった。 全然知らない人同士が文字だけで話をしたりするのって、BBSとかチャットの仕組み特有の「異様さ」というか「変な空気」があって実に面白いとおもう。 言葉の選び方ひとつで「気分」の表現ががらりと変わっちゃうから、文字だけのやりとりってのはすごく有意義な緊張感があってぼくは大好き。 「人に見られる可能性のある言葉の連続」を書くとき、人はいかに「自己演出」をうまくやってのけようかを一生懸命考えるとおもう。 このいいかたは誤解を招くかも知れないけれど、ぼくのいう「自己演出」とは、外側の世界(自己を除く宇宙=環境)にどういう風に自分を投影させるかという意味。 いやらしい「自意識」ももちろん含まれるだろうけど、イコールではない。 「自己演出」は例えばどうやったら誤解なく「自分」を「自分の内面で感じている自分」と誤差なく人に認知してもらえるか、という真っ直ぐなものもあれば、自分以上にみせたかったり、自分以下にみせる必要があったり、全くいつわったりする時も場合によってはあるとおもう。 そしてどんな場合でも、「自己演出」の上手な人ってのは圧倒的な「魅力」がある。

このあいだ、さぽと「どういうひとが好き?」と聞かれたらなんと答えるかという話をした。 迷わず「頭のいい人」と答えたいところだけど、勘のわるい人にそういうと「成績のいい人(暗記力と盲目的執着力に長けた人)」と混同されて困る、ということになった。 やつらはどうも「頭のいい人」というと、学生時代にいた成績上位の服のダサイあいつらを想像してしまいがちなのだ。 また、年輩の人に「頭のいい人が好き」というと、何故か「やさしさ・人情」なんかが欠落した人を勝手にイメージされてしまう傾向があり、「わたしは頭がいい人よりやさしくてあったかい人がいいなぁ」なんて返されることがよくある。  おいおいおい。 なんで頭がいいと冷酷なのか。逆でしょ。 「頭」が悪いから想像力が乏しくて人を不快にさせたり、自分のことしか考えられなかったり、ありえない組み合わせの服を着ちゃったりするんでしょ。 すべてにおいて「プラス」に向かおうという精神の状態、そういう精神状態で生きてきた結果得た、計り知れない心の豊かさ、そういう素敵なパワーをみんなひっくるめて「頭がいい」っていってるのに、なんで偏った狭い解釈されちゃうんだろ? とにかく「頭がいい」ってのはものすごく危険な表現なので、「どういうひとが好き?」って聞かれたときの答えには不向きだね、ってことで、なら「自己演出がしっかり出来てる人」というのはどうだろう?ということになった。 さっき書いたような「自己演出」という言葉の定義は、勘のいい人にはちょっとの補足で電撃的に伝わる。 すごい内容を内包したジャーゴンとして立派に機能する。 逆に話の通じないような相手、すなわちこちらの真意などいくら真摯に説明しても永遠に理解してもらえないであろう人にはおそらく非常にわかりづらい表現であり、「頭のいい人」とこたえた時のように浅はかに誤解されることが劇的に減るとおもうの。 そういう人には変に誤解されて甘くみられるよりも、とらえどころの無い変人くらいに思われてたほうがなにかと「楽」だから、この「自己演出がしっかり出来てる人」という答え方はなかなか良く出来てるのでは?と。 ある種「ふみ絵」的で、すべてをシャットアウトすることなく、丁寧に生きてる人にはしっかり通じる。

ちなみにロッカーが日常粗暴にふるまったり、文化人がインテリぶった身だしなみするのは「自己演出がしっかり出来てない」いい例。 そんな見え見えの行為は「センスのない自己演出」の代表。 じゃあ一体どういう人が「自己演出がしっかり出来てる人」なのかと聞かれれば、ぼくは答えられない。 それを言葉で定着させようとした瞬間に、その「しっかりした自己演出」はスルスルと逃げていってしまうのだ。 それでも無理矢理、逃げられないうちにひとことで早口でいっちゃえば、「常に内省」ってことなのかも。 ね、これじゃいつまでたっても捕まえられないわけでしょ? 究極。

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