No.193 みっちゃんのお葬式

さて、今日2月28日はみっちゃんのお葬式だ。 朝ご飯を食べ、準備をし、9時30分。 ぼく、さぽ、父、母、姉の5人で通町にある渡部家(みっちゃんの家)に出かける。 家にはすでに大勢の人が集まっていて、当然みんな黒い格好をしている。 小さいころ、盆と正月に決まってお泊まりしていたこの家にはとっても楽しい想い出が詰まりに詰まっていて、叔父にあたる(みっちゃんの旦那様)ひろしちゃん、従兄弟(みっちゃんの子供)のこうちゃん、まゆみちゃん、そしてもちろんみっちゃんのことを、ぼくはうんと愛している。 みんななんともいえないカラリとした明るさに溢れていて、嘘臭さが微塵も感じられないすごく気持ちのいい人たちなのだ。 だのですごく久しぶりのこの通町の家に、ぼくはなんだかとてもうれしい気持ちになってしまった。 で、すぐさまみっちゃんを見にいく。 みっちゃんのお顔はすごくきれいで、フランス映画の女優のようにきれいで、60過ぎとは思えないほどお肌はつるつるぷりぷりで、ちょっとびっくりしてしまった。 ぼくは、いつもそうなんだが、出棺前のこのお顔をみていると、悲しいというよりは「優しい」気持ちになる。 ぼくは「死」ということと「悲しみ」という感情がどうしても直に繋がらず、小さい頃は、自分はなんて冷淡な人間なんだろうと人知れず悩み、恐ろしくなったりしたものだが、どうもそうではないらしいと大人になるにつれて思ってきている。 だからといってどう肯定するというわけでもないのだが、「生きている」「死んだ」「うれしい」「かなしい」とかそういう単純な二元論では説明がつかない、全体としての複雑な「渦」を、ありのまま受け入れるという感覚こそが、すごく「正しい」受け止め方なんだと思うようになってきた。 そしてその「渦」の凝縮みたいなものが、この「お葬式」だとおもう。 残された人間によって行われるこのセレモニーは、終始、実に暖かくてきれいな人の気持ちに溢れている、全体としては実は「明るいムード」の行事なのだといつも感じる。 悲しみに悲しみを上塗りするようなことは、何も生み出さないということをみんな本能的に知っているかのような、なんとも逞しい前向きなエネルギーを感じるの。 

さて黒い集団が揃い、マイクロバスが到着。 男数人で棺を持ち上げ、いざ出棺。 数キロ離れた火葬場へ移動。 火葬場。 みっちゃんの肉体とはここでお別れ。 いつも、ここで泣いてしまう。 まわりが泣き始めて、自然と共鳴するというのもあるんだろうけど、体の奥底の方から、我慢できないほどの震えがおこる。 顔の筋肉ががくがくいう。 でもそれも、棺が炉の中に完全にはいって、係のひとが「1時間ほどで・・」なんて説明を始めた頃にはすっかりおさまってしまう。 あの高ぶりはどこからくるのか。   で、一時間ほど待つ。 この時間というのも奇妙なもので、みんな一様にケロリとしている。 ひとつ思ったことは、「高速道路を運転出来てしまう」ということとそっくりなんじゃないかということ。 いまおこっている現象をいちいち外側から冷静に正確に判断していては何も出来ないということ。 100km/h以上ものスピードを自らの意志で出していることをいちいちリアルに客観的に感じてしまっては、普通ならだれも恐ろしくて運転なんか出来ないはずである。 なら、なぜみんな運転できるのか? それは自分の「目の前にある状況」というのは、速度を感じない前方の窓越しの道路の映像であり、非常に簡単な操作系であり、ふかふかの椅子であり、音楽だからであると思う。 家にいて、ものすごく簡単なレースゲームをしているのと、主観としては変わらないからである。 ちょっとでも真横の窓の100km/hでスクロールしていく近距離の景色のスピードを意識したら、誰でも一瞬ゾッとするとおもう。 それと同じ事を、この火葬場における待ち時間で感じた。 目の前にあるのは、親戚が集まって談笑し、酒を飲んでお菓子をくってるという和やかで楽しげな状況。 今この時間に愛する人の体が炎に包まれているなんてことのほうが、実に日常から遠い、考えずらいことなのだ。 だからほとんどの素直な人は、さきほどお別れした生前そのままの体と、一時間後に出てくるまっ白い骨が同一のモノだなんておもっていないんじゃないかしら? もちろん意味としてはだれもが理解してるにしても、感覚的には「別物」と捉えているように思える。 でないとこの1時間はぼくたちにとって、もっともっと辛く耐え難いものになるはずだもの。 

真っ白のきれいな骨が骨壺におさまり、皆、なんとなくほっとする。 火葬というのは、残された近親者にとってなによりも大きな区切りとなる。 もう、どうしたって死を受け入れるほかない。  再びマイクロバスにて、こんどはお寺へ。 いよいよいわゆる「お葬式」だ。 ぼくは初めてなのだが、今日は全員椅子に座っての葬儀である。 ちゃんとそれなりに「仏教」の匂いを感じさせるデザインの椅子なのが偉い。 さて、皆席について、しば〜らく待たされ、そしてついに始まった。 始まってしまった・・・  前代未聞の、とんでもなくふざけたお葬式が。 ここからははっきりって笑い話である。 みっちゃんもおそらく大笑いである。 ドリフである。 とにかくすごかった。 喪主のひろしちゃん、子供のこうちゃん、まゆみちゃんまで、悲しむ隙を与えられず、とにかく笑いをこらえるのに必死だったという。 そして皆お互いにその笑いをこらえる苦悶の表情を「悲しみに歪む顔」と誤解し、「あの人があんなに悲しんでいるのに、私はなんと不謹慎なことか」と反省し、そうしてこらえればこらえるほど、その「笑っちゃいけない」プレッシャーがさらなる笑いを生み、はっきりいって地獄だった。 目をつむって情報を遮断するしかないと誰しもが考え、実行するのだが、今度はこの数日の疲れと寝不足の体に強烈な睡魔が襲い、居眠りラッシュである。 あっちでもこっくり、こっちでもこっくり。 なんというお葬式だろうか・・  さぁ、このふざけた状況を生みだした張本人というのが、そう、他でもない、住職その人である。  80を超えるこのもーろくじーさん、登場のときからもうすでにやばい。 足がふらふら横に動いていて今にも縺れて倒れそうなのだ。 やっと定位置についたとおもったら、体が相当しんどいらしく、ものすごく切ない声で「あ〜〜〜〜〜、こんちきしょう」とため息。 お経を読み始めるが、ぼつぼつぼつぼつと何をいってるのか分からず、ところどころ思い出せなくなってピタリと止まるのだ。 しかもやたらと「〜うんぬん」でしめくくる。 ほんとにそういうお経なんだろうかと実に怪しい。 伴僧の若い坊さまの方はしゃっきりとしているんだけど、お経を読むテンポを住職にあわせなきゃいけないから、住職が故障している間は「あ〜、う〜」いって待ってなきゃいけなくて、自然を装うのが実に大変そうだった。 さらに住職はお経の書いてある本のようなものを手に持ってそれを読んでいる格好なんだが、誰がどうみてもあきらかに適当にめくっているのだ。 なにせすごい早さでどんどんめくるのだから。 ジャ〜ンと鳴らすシンバルのようなものについたヒモの位置が個人的にどうも気になるらしく、進行が滞るくらいの勢いでそれを直すのだが、直後に自らの袖がひっかかりまた元に戻る。 しかもそれには気づかないという…  すべてが終わって退場する際、「こうして皆でお経を読むことはこういうときでないと出来ないから・・」と、意外なしっかりしたトーンで語ってくれたのだが、なんと喪主とは逆のぼくらの方にだけそういう丁寧な締めくくりの言葉を置いていき、肝心の喪主サイドには軽い会釈に「またよろしく」みたいなことをいって帰ったらしく、最後までやらかしてくれた。 「また」って…  葬儀がおわり、皆緊張から解放され、いろいろお話しているうちにみんな同じ事を思っていたことが分かり、一同大爆笑である。 自分が気づかなかった珍プレーを他の誰かは見逃してなかったりと、出るわ出るわ信じられない住職の奇行の数々。 みっちゃんには申し訳ないが、腹のそこから笑わせてもらったよ。  端からみたら不謹慎に見えるかも知れないが、参列した人間、全員納得づくでの大爆笑。 こういう葬式があってもいいと思う。 むしろ常にこうあって欲しいくらいだ。 悲しい別れの出来事だということは誰もが痛切に感じている。 せめてこのセレモニーの想い出は、愉快なものであってもいいんじゃないだろうか? と。 これから折に触れ、みっちゃんの居ない現実を思い知らされ、しんみりしてしまうことがあると思う。 そういうときに、寂しさと平行してあのもーろく坊主の偉大なるショーを思い出すってのは…   …やはり不謹慎だ。 あの坊主め…

なんだかふざけたような内容になってしまい、はたしてこれでいいのかと心配になってきたけど、実際にぼくが今回感じた、「お葬式はそんなに徹底的に暗い悲しいだけのものじゃない」という気分を、なんとなく伝えられたのではないかしら? ごまかさずにはしょらずに(その結果まとまりなく)今日のことを書くことで、ぼくなりにみっちゃんに対して出来るかぎり誠実な気持ちでいようとしたんだけども、はたしてみっちゃんは誤解なく受け取ってくれるかしら? 

2003-02-28-FRI

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