No.226 張り子のキリン

久々に1st以外の昔のキリンジをじっくりと聴いてみたんだけど、やっぱりちゃんとかっこいい曲がおおいわ。 牡牛座ラプソディーなんてリズム隊が気持ちよすぎて鳥肌ものだし、テクノクラートなんて未だにジャンル不明なほどあり得ない展開(なのに奇をてらったダサさがない!)だし、ダンボール〜V.I.P〜口実のお兄ちゃんコンボには、その無国籍な、それでいて妙な甘さにメロメロだし、休日ダイヤは聴くほど化け物みたいなポテンシャルに気づかされて失禁だし、風を撃て、アジサイ、冬のオルカなんて名曲が実は弟曲だし、やっぱりどっからどうみても昔の方が質が良かったよ。 で、なんとなく思ったのは、昔の曲は「こっちが補完する余地」があったってのがかなり重要なんじゃないかってこと。 音についてもだし、詞世界についてもなんだけど、「とらえどころがない不思議さ、かっこよさ、あたらしさ」の感じさせ方が、立て続けにうまかったんじゃないか、と。 例えば、まだよく知らない美少女を妄想すること。 例えば、エヴァンゲリオンの設定を勘ぐること。 こういうのって、そのもののもつ実力以上に、こっちが勝手にあやふやな部分に無限の「すごさ」を感じて、非現実的な気持ちよさを勝手に作り上げるんだと思うの。 こうやって個人が自分のノスタルジーと織り交ぜて勝手に作り出した「すごさ」ってのは、何者も太刀打ちできない。 だって架空なんだもの。 夢をみた朝のあの切なさ。 童貞のあこがれ。 知らない町のもつドキドキするようなあの魅力。 全部自分の体の中で何倍にも増幅したものだもの。 まだよく知らない美少女は、仲良くなったら実に現実的な存在に変わるし、エヴァンゲリオンの設定は実は相当曖昧なものだった。 だからダメだってわけではなく、そういう含みを持たせるのってすごく大事だなぁ、と。 表現が最終的に目指すところは「快」の増幅だとぼくは思うので、こんな化け物みたいな「快」を生み出す手法は、張り子のトラだろうがなんだろうが、大賛成である。 で、初期キリンジはその「含み」をもたせるのが異常にうまかった! もうその隙間の部分にクラクラきてた。 全体的にとらえどころのない「すごさ」を感じさせられていたから、弟のベタベタな曲さえ、「この人らがこんなに堂々とやってるんだから、ベタなようでもやっぱり二味違う」と思わされてたもん。 たぶん。  ところが最近は1から10までかっちり作って「これはこういうもんで、他の何者でもないぞ!」という勢いで投げてくるもんだから、ちっとも隙間が楽しめない。 深読みできない。 弟が完全に牧歌的ロケンロヤローだってこともばれちゃったし。  あぁ、もうなんともなんないのかなぁ・・・ ムーンライダーズもくるりも中村もなんかしっくりこなくなってきたし、新手の喫茶ロック系もなんかダサイのばっかだし、ぼくとして歌もの邦楽はもうだめなのだろうか・・・  かなしい・・・  歌いたいのに・・・

2003-04-02-WED

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