No.233 製作欲

最近あらためて自分の仕事を客観的に見てみることをしているのだが、どうも知らず知らず手癖におちいっていたようだ。 まずい。 たしかに営業の指示もずさんだし、素材もひどいものはひどいのだが、もっと、ぼくの努力でなんとかしようはあるはずなのだ。 できるかぎり視野をひろげ、いろんなことを試し、全てをとことん追求してやるって気持ちで日々挑んではいるんだけど、やっぱりどうしても状況に食いちぎられてしまい、結果モチネタの組み合わせコラージュになってしまいがちだ。 もっともっと意識して勉強しないとダメだ。 「なんだかわからないけど良い」ってものを残してちゃ甘い。 「良い」と思ったものは「どうして良いのか」をつかむまで離れちゃだめだ。 とことん吸い尽くさないと。 もっといろいろ見ないと。 春になったからか、かなり強い進化欲につつまれているのだ。 で、もちろんその欲は仕事だけではおさまらず、プライベートでの作品欲にも燃え移ってくれた。 つくづく、ぼくは「お話」を作りたくてしょうがないらしい。 ショックウェーブムービーでも、漫画でも、小説でも、とにかく納得いく作品をひとつつくってみたい。 ある程度の尺をもったものを。 いままでなんどか挑戦したのだが、どうしても途中でストーリーが本質的に破綻してしまうのだ。 原因はわかっていて、登場人物全員をとがらせてしまうからなのだ。 変態性は、ステレオタイプな目が近くにあってはじめてひきたって魅力的に映るのに、ぼくは安易に全部変態にしてしまうから、基準点が不明になり、あまり心地よくない浮遊感で飛んで行きっぱなしということになってしまう。 変拍子、ポリリズム、転調多用でまとまりつかなくなった前衛音楽みたいな情けないことに。 やはり、リフレインは大事だし、基準の「調」を然るべきタイミングで感じさせることも大事だし、暴れたリズムも落ち着く分かりやすいとこに帰着するのが大事なわけだ。 中原昌也の「あらゆるところに花束を(うろ覚え)」が、ぼく的に(中原さんごめんなさい。それ以前の作品は化け物だとおもっています。)まさにそれ系のダメダメ感の代表作なわけで、あれは作品として「快」に繋がらない。 面白くなるはずなんだけど、なぜかならなかったってやつだとおもう。 死ぬ思いして生み出してあの感じにしかならなかったら、そら恐ろしいことである。 自分すらよくわからなくて、自分すらよくわからないんだからきっとすばらしすぎるにちげーねーといって楽しむことも出来るだろうけど、それじゃあ虚しい。 せめて自分だけでも楽しめないといかん。 つーか、中原とか、人を例にあげる前に、当サイトの「pod&ettum」がまさにそれだわ。 ふたりとも外側に勝手にとんでっちゃうようなキャラにしたせいで、いつまでたっても第3話が作れないでいる。 グズグズだな、ぼく…  というわけで、そういうことをふまえた上で、どういうカタチかはわからないけれど、今年は「作品」と呼べるような「お話」ものをひとつ作ってみたいと思っております。 日記も、やればできた(できてる)ので、これだって出来るはず! で、期待してるのは、最初はグズグズで気恥ずかしいような世界感も、長く続けて、そこに生活するキャラクターたちがぼくにとって定着してきたとき、どういうことになるかってこと。 自分の操作の外のチカラによって生まれた「たしかな存在感」というものが、100%自分が表現した世界に吹き込まれたときの見え方ってのを是が非でも体験してみたいのだ。 あぁ〜、うれしくってもぞもぞしてくる。 たのしみ。 

ところで、今日さぽから聞いたビックリ情報。 熱く「熱しすぎた」油に、春巻きの皮をいれたさぽ。 さて、春巻きの皮はどうなったでしょう??  答え。 なんと、瞬間的に溶けて無くなったそうな。 すげー。 さぽは予想外の不思議体験に、たいそう胸をときめかせたそうな。 

2003-04-09-MON

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