No.267 文学、絵画、アート、社会、思考(労働)

保坂が町田康の解説で実に痛快なことをいっていた。 セロニアス・モンクやグレン・グールドのピアノも例にあげ、この人らの物語、あるいはメロディーは、次作でなく、作品の中でさえも〈こんな話(曲)、一体これからどういう風に展開させることができるんだろう!〉と感じることがあるのだが、しかし話はちゃんと展開する。 ところがこの「しかし」といっちゃうあたりがそもそも受け手としての大きな誤解であって、〈いかにも展開しそうな話はじつは、すでにある物語の雛型を借りてきているわけで、それは「展開」でなく「踏襲」でしかない〉と。 さらに〈本当に展開する話は、だからつねに一行先に起こることすら見当がつかず、それゆえ展開のしようがないという錯覚を受け手に抱かせる〉と。 で、ついには〈リアルなものとは、そういう見通しを遮断する力に溢れていて、それに立ち向かえるのはほんの一握りの小説家だけなのだ〉だって!  見通しを遮断する力!! 「老人力」的なこの「力」の裏返しの使い方がたまらなくグッときた。 ほんとにそう! 雛形の踏襲なんか見たくないんだ、こっちは。 ストックされてる雛形が圧倒的に少ない幼少時代はすべてが新しいものにうつるからそら仕方ない。 学習・貯金の時期である。 しかしいい歳こいていつまでも「カンタンに消費されるだろう」ことを前提として作られたビジネスライクな似非文学や似非音楽や似非哲学な娯楽にごまかされてちゃマズイ。 いやらしい気持ちで裏側からたまに利用する程度なら、まさに「テレビ」的な存在として「あり得る」とは思うが、それ「だけ」ってのはマズイ。 ぼくはこの日記において「芸術」とか「アート」というかなーり危なっかしいジャーゴンをあえて直球で使うことにしているのだが、結局その言葉に込めたい「意味」というのは「文学」とか「絵画」とか「果てしない思考」といったようなことで、決して何かたいそうな文化的な行為でもなけりゃ、コミュニケーションのことでもない。 それはようするに「社会」という、真の問題や孤独や恐ろしさをすっかり忘れさせて、労働さえしてれば健全な自己肯定感が生まれる「甘〜い麻薬」のようなシステムから一歩踏み出してしまった人がぶちあたる、徹底的に愚直な、徹底的に不可避な、「永遠の労働(思考)」のことなのだとおもっている。 で、うんと厳しいようなのだが、本来全てのひとが、その「厳しい外側」で「自立」するべきだとぼくは考える。  保坂は町田評において、この「厳しい外側の領域」のことを「文学」という言葉で話している。 町田作品における主人公は、どれも一見してすごい怠け者、どうしようもないダメ人間のようにうつる。 が、それは読む側が〈サラリーマン根性というか社会人根性で町田康を読むから〉であり、ほんとうは主人公たちは〈社会生活からずり落ちたために文学に直面することを余儀なく〉されているのだ。  文学に直面。  つまりぼくの肯定したいところの「厳しい外側」での「自立」。  そういう意味で、保坂は主人公たちを怠け者どころか「真面目」であるといっている。  で、「厳しい外側」での「自立」というのは、くどいようだけど決してコミュニケーションなどではなく、ホントに孤独な思考の連続でしかなくって、「多くの人に賛同してもらいたい、共感したい」というものではない。 そういうアートもどきは結局「社会」の性質をひきずってしまっている。 保坂的にいえば「社会人根性」むき出しであるのだ。 ぼくはこの日記を書くとき、どうしてもどこかで「面白いとおもってもらうには」という「社会人根性」がでてきてしまい、結局いつもいやらしい中途半端な「周辺空気の要約」から抜け出せないでいて、はっきりいって苦しい。 「表現」するということは「コミュニケーション」をすでに含んでしまっているんだもの。  ぼくはほんとはもっともっと、出来うる限り「文学」なり「アート」な領域にちゃんと足をつけていたいのだが、染みついた「社会人根性」がどうしても、いつまでたってもちっとも抜けない。 「エンターテイメント」をしようと血が先走る。 それがすでに「雛形の踏襲」そのものを意味すると知っていながら・・  エンターテイメントを意識せず、町田のように神とか仏とか虚無とかに向かっていけるようになってこそ、最高のエンターテイメントに成りうるとうすうす感づいていながら・・・

2003-05-13-TUE

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