No.271 めぐりあう時間たち

うんと天気がいいので山にでかけた。 フレーブでパンを買って、西蔵王公園の奥の方、人のいない林道沿いの沼のほとりでランチ。 屋根がついたベンチにすわり、山を写した沼を見ながらのうんと楽しいランチ。 山の色がほんとにすごくて、まるでクリムトの風景画のようだとふたり大絶賛。 ぼくらクリムト見たさで新婚旅行はウィーンの美術館巡りなんていう2度と出来ないような贅沢をさせてもらったんだけど、そのとき見た正方形の3連の風景画がぼくはほんっとに忘れられない。 クリムトというと、例の金とパターンをふんだんに使った人の絵が有名だけど、もちろんそれ系もとてつもなくカッコよくてひざがガクガクするほど感激だったのだが、その3連の風景画はまた別の質感の感動で、正直はじめて絵画で泣いた。 もうね、そこから動けなくなった。 普通はかっこいい絵をみると、盗もうという心が働いて、感心しつつ「良さ」を分析しはじめちゃうんだけど、この風景画はもうそういうことではなかった。 とにかく見た瞬間から、自分がサイコメトラーにでもなったかのように、その場にいるクリムトの感覚、感情が自分のなかにいきなり入ってきた感じだったの。 こんな漫画みたいな体験、文章でこうやって読まされてる人にはおそらくたいそう陳腐なものに聞こえるだろうけど、実際不意にそんなことになっちゃったぼくとしてはとんでもない衝撃体験だったのさ。 音楽ではこのレベルの感動は何度か体験していたが、ついに絵画でこのレベルの電撃的な感動を味わうことが出来た!っていうことで、その絵はほんとに印象深い。 まさにその絵の存在感にそっくりな景色だったの。 今日のその山と沼は。 おかげさまで体中から力が湧いてきた。

で、夜。 今日も昨日に引き続きソラリスレイトショー。 今日からはじまる「めぐりあう時間たち」を観にでかけた。 ぼくは実は昨日までこの作品について何の情報もなく、存在すら知らなかったのだが、予告をみて「間違いなくとんでもなく面白い」と分かったので、迷わず連ちゃん決定。 ニコール・キッドマンのあの顔をみたら、気狂い予備軍(まともな感受性をもった人)は見ないわけにはいかないよ、ほんと。 あの年代の女性のあんなに深い眼差しはぼくは見たことがない。 鳥肌がたった。 で、8時50分上映開始。 昨日の席のちょうど一列前。

あのね、すごい。  とんでもない。  とてつもない域に達していた。  3つの時代を生きるそれぞれの女性の無関係なはずの「一日」が実に考え抜かれた緻密さでもって不思議なリンクをしながら同時進行するという、そのアイディアだけで鳥肌ものなのに、それぞれが抱える単純ではない「苦悩」の質、その質感がなんとも分かりにくそうであり、しかしその不可解な感情のテンポこそが実はリアルであり、純粋であり、つまりはこの単純ではない世界で日々生きて苦悩しているぼくらにすさまじい勢いでもって入ってくる。 3人の女性の演技がほんとにすごいレベル(まさに全神経、全細胞にまで演技がいきとどいているよう!)だもんだから、ちょっとした不自然な目の輝きとか、その流れでその首の回転(振り返りかた)は子どもが傷つくとか、一瞬の悲しい笑みとか、唐突な感情のたかぶりとか、もう一時も目が離せない。 すごい緊張感でもってこっちは常にいっぱいいっぱい。 全体に重い苦悩が横たわってはいるのだが、それは一概に「負」のエネルギーってことではなく、その悲しい響きこそがすごく「真実」で、きれいで、愛おしくて、たまらないのだ。 ぼくはこういう、あまりにも繊細すぎるためにあらゆることに傷つき、喜び、どうにもならないがどうにかするしかないといった空気がしっかりと表現されている映画がほんとに大好きで、一番心を揺さぶられる。 すばらしい。  ぼくはこの映画でニコールが演じる作家、ヴァージニア・ウルフという人を映画を観終わるまで実在すると知らなかったのだが、ぜひ、この人のことをちゃんと知りたいと思った。 ニコールは、ウルフの精神にできるだけ近付こう、なんとか到達したいと、声を潰し、歩き方を真似、付け鼻までして役にはいりこんだらしいのだが、このニコール演じるウルフにぼくもさぽももうメロメロ。 あまりにも精神が気高いのだ。 それゆえ脆く、複雑で、すばらしくきれいなの。 かわいいの。 ジャックとジェンニー(チボー家)を思わせる純真さ。 ところでこの話、ウルフの著書「ダロウェイ夫人」がそれぞれの話の接点になっているんだけど、劇中で「ダロウェイ夫人」が「ダロウェイ夫人」としてあつかわれてるのと同時に、構成そのものも「ダロウェイ夫人」へのオマージュになっているようなのだ。 読んだことがないから定かでないのだが、この「ダロウェイ夫人」も、「ある一日」をいろんな登場人物の過去やなんかと絡めながら複雑に織り成していくという構成らしく、まさしくそれって「めぐりあう時間たち」のやり口にだぶる。 こういうことも知ってて観たらまた理解が違ったんだろうなぁ。 「ダロウェイ夫人」は5年くらい前に映画にもなったらしいので、明日にでも観てみようと思う。 とにかくこの「ウルフ」という女性にとても興味が湧いた。  だれかが「これを観てしまうと他のほとんどの映画が子どもだましに見える」みたいなことをいってたが、確かにそうで、後がつらい。 よくぞ「人間」をここまで誠実に切り取れたなとため息がでる。 ただ、たったひとつ、残念だったことがある。 中盤の、張り詰める空気が、それぞれの女性の心の動きがピークってときにだ。 なんと、字幕に「姉さん」と出ると同時に、ニコール演じるウルフの口からも「ネエサン」。 ?????!! そしてその直後、家の外から子どもが「ネッサーー!!」と叫ぶ。 そう、姉さんの名前がネッサーで、ウルフはほんとは姉のことを名前で読んだんだけど、字幕では「姉さん」とでたの。 この「あれ??? ああ…」のテンポがあまりにも絶妙(笑いとして)で、絶対に重さから抜け出してはいけない大事な場面で、ぼくらふたり、無音の大爆笑をしてしまった。 ちきしょー。 あそこでかなり損した。 作り手の意図する完璧な「受け手の心の動き」から強制的に引っ張りだされてリセットされてしまった。 ちきしょー。 ネッサーでいいよ、あそこは。 狙ったんか?

2003-05-17-THU

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