No.284 な〜んかむかつく

どうもここ数日、環境(自己以外の世界)と自分との間に歪みを感じる。 すべての言葉、思念に過剰に悪意を感じる。 いや、悪意というのではない、許し難い不誠実、怠惰、傲慢というべきかしら。 安易な自己肯定のためのみえすいたごまかし、排他気取り、出鱈目。 うんざりだ。 最近感じるのだが、良く「自分は人間的にそうとう分かってて、本当はすごく深いところまで考えることが出来てはいるんだけど、表現が下手で、うまく伝えられないんだ」という態度の人がいるけれど、なんかそれは違うんじゃないかと思うようになってきた。 表わすことができないことは、結局自分のなかにもないんじゃないか?と。 何か大したもののような気分でいられるのは、まわりの気分や、書物の知識や、そういう外から入ってくる情報をすべて自分の考えだとおもいこんでいるからに他ならない。 それらはまだその人の考えと呼ぶべきものではなく、未整理の記憶ともいうべき知識でしかないとおもうのだ。 ひとはそれらを自分の言葉で編集して、発声して、その音声を耳から聞いて、それで初めて「理解」したことになるのだと。 だから自分の考えてる2割程度しか言葉にできてないとおもって、「本当の自分」に満足してる人は、実は残りの8割なんてものは存在せず、自分のおもってるモノの2割程度の人間でしかない。 だからほんとは今の5倍は謙虚でいなくちゃいけない。 みんながみんな、ひとのふんどしで相撲とってるのに気づかずに、うまいこと自分で立ち回れてるとおもっているから、いろんなとこですごい歪みが生じて、どこかの誰かが凝縮されたその「ツケ」を払わされることになる。 つまり信じがたい不愉快を感じたり、殺されたりする。 なんか自分は蚊帳の外みたいないいっぷりだけど、もちろん自分自身の「2割」に死にそうなほどショックだし、自分の拭いきれない傲慢にはつねに激しい自己嫌悪を感じている。 大抵外からの「歪み」によって怒りは芽生えるのだが、そのうち自分の傲慢なのか外の傲慢なのかわけがわからなくなり、いっそすべて受け入れてしまうしかないと観念するのだが、しかしそれこそが最大最悪の不誠実、怠惰、傲慢に他ならないことに気づき、必死で問題を誠実に透明にしていくことをすることになる。 間違ったことを受け入れるのは、それがどういう精神にのっかってようと、それは絶対に「逃げ」だ。 そうすることによってしか状況が動かないとか、自分自身、それが間違いといいきれるのか不安だとか、様々な要因はあるのだが、つまりは圧倒的に「未熟」だからそういうことが問題となってしまう。 「悪法も法なり」「隣人を愛せ」、これらは高い精神力と広い見識なくして、浅いところで適用してしまうと、まったく逆の、最悪の結果を引き起こしてしまう。 無条件で「悪」を受け入れることの「罪」を意識できないのなら、決して「悪法も法なり」なんていっちゃいけないとおもうのさ。 悪法を誰よりも「悪」であるとして、誠実に憎みつくせる人にこそ、意味のある言葉だと。  ああ、なにをかいてるのかわからなくなってきた。 とにかく無性にむかつく。 なんでもっと謙虚でいられないんだ。 なんで自分が自分がってがっつくんだ。 もっとひきこもれ。 形而上的なところこそもっともっと大事にしろ。 8割をほんとにモノにしろ。 なんなんだ一体。

しかしこうして「環境」と「自分」を非難してるってことはつまり「全て=世界」を非難してるってことで、しかしそれってありえないじゃない。 だってそれを「嫌」だと感じてるなにか得体の知れない自分の中に確かに存在する「確固たるちっちゃい粒」がなけりゃ、それを嫌だと感じることも出来ないじゃない? 内省するときにだって基準となる「確固たるちっちゃい粒」がなけりゃ反省のしようもないわけで。 その「世界」からもはみ出す、絶対的な「正義」の存在こそが、人間の存在意義なんだろうか? という馬鹿まるだしの言葉遊びでもってしめたきになって家に帰る。

2003-05-30-FRI

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