No.308 アントワーヌのことば

「だが、とりわけおれの望みたいのは、おまえがおまえ自身にたいして身を守ってほしいということだ。 自分自身について思いちがいをしてはいないだろうか、見かけにだまされてはいないだろうか、このことを夢にも忘れないでいてほしい。 自分自身の利害などは考えないで、あくまでも誠実さを押しとおし、それを明らかなもの、有意義なものにしなけらばならないのだ。 また、次のこともわかってほしい。 そうだ、つとめてこのことをわかってほしい。 すなわちおまえたちの社会の少年たち−−−すなわち、教育もあり、読書によってはぐくまれ、聡明な、なんでも気ままに話せる人たちのあいだにあって育てられてきた少年たちにあっては−−−これこれのこと、これこれの感情について、とかく経験よりも観念のほうが先だつものだということを。 それらの少年たちは、頭の中なり、想像の中なりに、自分たちがまだ直接少しも経験したことのない無数の感覚を知っている。 そして、彼らはそのことに気がついていないのだ。 そして、知るということと感じるということとを混同している。 彼らは、それが人に感じられるということを知っているにすぎない感情なり欲望なりを、さも自分が感じてでもいるように思いこんでいるのだ……」

「おれの言うことを聞くがいい。 天分なるもの! これについて一つの例をとろう。 おまえは十歳、十二歳のころ、冒険談に熱中しながら、自分には、船乗りなり、冒険家なりの天分があると思いこんだことがあるだろう。 そしていま、じゅうぶん分別のできているおまえは、そのことを思って定めし大笑いをするにちがいない。 ところがだ。 十六歳、十七歳になったいま、おまえはやはりおなじようなあやまりにねらわれているのだ。 気をつけるがいい。 そして、おまえ自身の好みを警戒しなければ。 たまたま書物なり人生なりの中において、おまえが、詩人とか、偉大な実業家とか、恋人たちとかを賛嘆するようなことがあったにしても、これを移して、軽々しく、自分が芸術家であり、ないし偉大な恋愛の犠牲者であるなどと考えてはいけない。 自分の性質の本質がなんであるか、それをたんねんに求めてみなければ。 自分の真の性格を、すこしずつ発見するようにつとめるのだ。 ところが、これはやさしいことではない! 多くの者は、ずっと後になってからようやくそれに成功する。 また、多くの者は、ついに成功しないでおわってしまう。 そのためには、じゅうぶんな時をかけなければ。 何もいそぐにはあたらない。 自分がそもそも何者であるかを知るためには、長い模索を必要とする。 だが、いったん自分がつかめたとなったら、時をうつさずあらゆる借り着をすててしまうがいい。 限られ、欠点を持ったものとしての自分自身をみとめるのだ。 そして自分を、その正しい目的へ向かって、健康に、正常に、なんのけれんも用いないで発展させようとつとめるのだ。 みずからを知り、みずからをみとめるということつまりは、必ずしも努力を、また完成を思いあきらめることではなく、むしろその逆なのだ! それこそは、みずからの最大限に到達する絶好の機会を持つこと、とさえ言えるのだ。 というわけは、そうあってこそ、感激が、はじめてその正しい方向、すなわち、あらゆる努力が実を結ぶ正しい方向へ向けられることになるからなのだ。 だが、それも自分の持って生まれた視野でなければならない。 そして、その視野が、はたしてどんなものであるかをよく理解したうえでなければ。 人生に失敗する人たちとは、もっとも多くの場合、出発にあたって、自分自身の性格について思いあやまり、自分のものでない道に迷いこんだ人たち、または、正しい方向へ向かって出発しながら、自分の力の限界にふみとどまることを知らなかった人たち、あるいはまた、そうした勇気を持たなかったところの人たちなのだ。」

チボー家より抜粋。 あんまりしっかりとぼくの言いたいことをいってくれてて、お風呂で読んでてうれしくなっちゃって、そのまま引用してしまいました。 なんでぼくがいつもしつこく「もっともっと誠実にならないと」と思うかが、すごく明確に書かれてたの。 うれしい。 

2003-06-23-MON

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