No.326 回復、カービィー、ダロウェイ

やっと回復期(風邪ね)にはいったような気がする。 一日中体をあったかくしてマスクして、不快指数の高いモワモワ状態をつくってじんわり汗をかきながら仕事をしてたら、おもわくどおりウイルスがかなり死んだようだ。 しかし続く低気圧のせいで神経はおかしく、ところどころズキズキ痛み、よ〜く注意しないと風邪とそれの境目がむずかしい。 が、かれこれ何年もこういう変な不調を感じ続けたぼくは、自分の体の感覚を徹底的に微分して、この感じはこの感じとは別物で、これこれは何に起因して、というのがかなり鋭くわかるようになっていて、風邪の回復は間違いないとおもう。 よし。 ここで調子にのってはいけない。 続けてあったかくして安静にしてのどを潤して栄養をとらないと。

どうも最近マザーでまったり遊んでいたり、夜は読書中心だったりと、「静(受動)」の生活がつづいたので、自然の摂理か、逆のベクトル「動(能動)」を体が求めている。 ようするに音楽を聴くのでなく、うたったり楽器をならしたり、テキストを読みすすめるのでなくアクション性の高い「体で身につけて進歩する」みたいな喜びを感じたい。 体が回復してきたこともあり、その欲望が動きだし、帰り道、全然予定していなかった「任天堂の新作」を購入してしまった。 全然ノーマークで、今日発売だとさえ知らなかった、というか「クソだろう」と勝手に偏見で馬鹿にさえしてたその「カービィーのエアライド」という異色レースゲームなんだけど、偶然見た記事と、制作者のコラムを読んだら、もう買わずにはいられなくなった。  なんでもそうなんだけど、ある程度経験があって、ボキャブラリーがあって、ジャーゴンをたくさん知っていると、制作者の「もののいいかた」で、これは間違いなく面白いとか、これこそ自分が大好きなものだ、というのが「ちゃんとわかる」。 もちろん制作者も「ちゃんとわかる」人でなくてはならず、しかし激烈に面白い作品を生み出す人だもの、言葉だって感性だって気分だって、当然極上なものをもっている。 で、その極上の言葉を受けて、これは間違いなくめちゃくちゃ面白いことを確信してしまって、今日発売だと知り、即購入。 「導かれた」としかおもえない出会い。 こういうのには迷わず従う。  しかしまさか「カービィーもの」を買うとは…

家にかえり、ミミにごはんをあげて、さっそくちょっと遊んでみる。 やべー。 きた。 ぼくが任天堂を特別に愛するその大きな理由であるところの「別格の面白さ」がいきなり感じられた。 まだ慣れなくて面白さの100分の1も感じてないんだけど、しかしすでに相当面白くて、それなのにこれから100倍面白くなることを予感させるというのはすごいじゃない。 この予感はぼくの勝手な妄想では決してなく、今までの任天堂体験から培った、間違いのない「確信」である。 この感触は、稀にみる大当たりソフトのそれである。 しかしすげー楽しい! これを待っていたよ、任天堂! 何となくだけど、マリオカートの新作よりも、F-ZEROの新作よりも、うっかり面白いものをつくってしまったんではないだろうか、カービィーなんかで…  制作者の桜井さんも、「つくってみたらすごく面白くなっちゃった」みたいないいかたをしてた。 大作のバランスが崩れる、うれしい誤算。

1時間ぐらい楽しんで、8時になったのでさぽを迎えにいく。 今日はフォーラムで一日限りの「ダロウェイ夫人」の上映があり、「めぐりあう時間たち」がとんでもなくおもしろかったぼくら、この日を楽しみにしていた。 ヴァージニア・ウルフをこれでもう一歩深く知れる。 これが面白かったら小説も読んでみたい。  ところが上映開始してまもなく、入り口付近にすわったのが運の尽き、関係者の出入りするそのドアのきしむ「ギュギュ」という音が、ガラスをひっかく拷問のごとくぼくの神経にさわり、おさまっていた「雨による神経の乱れ」がでてきてしまい、体中の細胞がイライラソワソワしはじめてしまった。 なんでこんなときに! くそ! なんとか気にしないように映画に集中するが、数分おきに思い出したように悪寒が全身に走り、いてもたってもいられない最悪のコンディション。 足をのばしたり腕をうらがえしたり腹をだしたりつねったりして刺激して、深呼吸して落ち着けて、ごまかしごまかしの努力をつづけながら見たもんだから、半分しか集中して見れず、ぼくは登場人物について致命的な「間違った見方」をしてしまった。 それに気付いたのは1時間も過ぎたころで、そのころには体も落ち着いていて、そこからの40分くらいは楽しくみれた。 が、やはり前半のミスは大きく、さぽの「おもしろかった」とぼくの「おもしろかった」の間にはすごい段差があるのは明確だった。 なんてもったいないことを。  ただ、最後にダロウェイ夫人がバルコニーで、飛び下りて死んだ青年に自分を重ねるシーンで「その美しさをあなたと同じように感じて」と、飛び下りたことを「美しい」と素直に捉え、讃え、しかし自分はそれはしないでパーティー会場にもどることを選ぶところがすごく綺麗で、綺麗で、「めぐりあう時間たち」で感じたヴァージニア・ウルフの強さ、弱さ、美しさ、神聖さを、ここで一番強く感じた。 そしてしかし彼女自身は自殺によって若くして死ぬ。 死ぬことについて、肯定とか否定とかいった感じはいっさい関係なく、とにかく絶対的な「美しさ」を、このウルフという女性は残したとおもう。 機会をみて読んでみよ。

夜はどんどん回復にむかい、体がみるみる楽になっていき、2日ぶりに湯舟に浸かった。 きもちいい。 今日は旧約聖書の本の、ダビデのところを読んだ。 ダビデ像のダビデが何者かも知らなかったというのはどうかと思う、と反省。 というか逆に、聖書をしると古典美術が格段に面白く見れるんだね。 これはいい!

2003-07-11-FRI

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