No.338 面白領域ライン

デザインしかり、音楽しかり、スポーツしかり、とにかくあらゆる学問にいえることだが、ただ漫然と量をこなして長い時間触れあっているだけでは、あるラインから上には決していけない。 そしてそのラインから上こそが、真に「おもしろい」領域なのだ。 と感じる。  ほとんどの物事が、あるレベル以上の洞察力、執着心、集中力を総動員してはじめて、ほんとのおもしろ骨格が漸くみえてくるような仕組みになっていて、その「あるレベル」というのが実はかな〜り高いのだ。  上達が早い人ととか、何でもしっかり楽しんでいるような人ってのは、その骨格をいち早く見つけることができる人で、結局それまでの経験によって「面白領域ライン」に到達する道筋とかポイントがたくさん身に付いてる人で、「これにはきっとこの視点だな」とかいう見当づけが的確なのだ。  過去に「面白領域ライン」に到達した物事の数が多けりゃ多いほど、そのストック数は増えるし、経験により精度も増すので、新しいモノに対峙したときの態度がより豊かになるのは当然で、その数が多いほど「魅力ある人」であるのはちがいないんだけど、ここで重要なのが、その右肩上がりの「放物線」が始まるよりも前の段階で、人を「ふたつの種類」にパキっとわけてしまう決定的な「線」が存在する。

すなわち、「一度も面白領域ラインに到達したことがない人」と「一度は面白領域ラインに到達したことがある人」の差である。 

この人、とってもいい人なんだけど、どうしても大事なところでもの足りない、と感じてしまう人ってのは、少なくともぼくの経験上、ほぼ間違いなく「一度も面白領域ラインに到達したことがない人」である。  一度でも「面白領域ライン」に達したことのある人は、激烈な特訓だとか、辛抱だとか、そういうものをものともしない精神力がある。 「ムケ」た感じと、「余裕」と、「マゾ」と、「確信」と「冷酷にみえる何か」と「なんだかわかんないけどあたたかい愛」を感じる。 なにせ「面白領域ライン」に達した後は、夢のような世界が広がっていることを知っているのだからそもそもモチベがまるで違う。  未体験者は、急激にその物事に関する世界が違って見えるあの感動を知らないから、初見の手触りがぴんとこないモノには自らのめり込もうとしないし、ましてすさまじい鍛錬なくしては楽しむこともできないモノなんて、なんでそんなことしなくちゃいけないのかと馬鹿にしさえするだろう。  言語道断なのは、自ら声高らかに「おれって何やっても続かない」とか、「私は広く浅くってタイプだから」などと、ちょっとほんとは「いい」とおもってるようないいっぷりをする馬鹿で、そういう奴に運悪く接してしまうと、ほんとに寒気がする。 ゲロを吐きそうになる。 そんなみっともないことは直ちに全面的に反省して、改善されないかぎり間違っても口にするな!  とにかく何かひとつでも「面白領域ライン」を覗いて見ろってんだ。 犯罪だろうが愚にもつかないことだろうが、変態行為だろうがなんでもいい。 「面白領域ライン」もこえずして、法を守ってございます、モラルでございます、なんていっても何も意味がない。  ぼくが「この人は生かされてる人だな」「この人は生きている人だな」と分けるラインもきっとここだ。  さっきもいったけど、経験が増えれば増えただけ「放物線」を描いて「べき乗アップ」していくわけだけど、そのことよりもまず、「0か1」かってことが決定的に大事なのだ! 「0」はまずい! お話にならない。 振動数があがると振動数の低い人からは見えなくなるとはいうものの、たぶん「1」ならばずっと上の価値もなんとなくでもわかる。 とおもう。 しかし「0」はまずい。 「0」から「1」は振動として認識できない。  ステージに上がらずして、それどころかステージの存在も知らずに土に帰るのは許されないでしょ? どうかんがえたって。 「0」はまずいよ。  恨まれようが、嫌われようが、たとえ永遠に理解されなくても、とにかく「1」を自覚している人は、「0」の人を「1」に導くようなきっかけを作り出す義務があるとおもう。 もちろん見込みある「0」に対して。 自らの得意分野の面白領域に隠された秘法の影を、ここだ!という機を逃さず差し込む、その努力を怠ってはいかん!と。 そう思ったのですよ。  そういう風におもったのですよう。

2003-07-23-WED

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