No.343 病気と健常

なんか今日やってた自閉症のドキュメンタリーをみてて思ったんだけど、ぼくもさぽも、はたまたぼくらが仲良くなるような人はみんな、少なからず自閉症のけがあるわ。 なにかに異常に固執して、そのものから出ている情報を消化しつくすまで、何十時間でもひとつのことに熱中したり、自分の領域、自分の美学、自分のルールを乱されるのがたまらなく許せなかったり、と、1)それがあまりにも行き過ぎて社会性を失うまでになると「自閉症」という名前をもらって病気として扱われ、2)それが社会とギリギリのところで折り合いがついて、その病的な部分で得られる社会性を欠いた「価値」がうまく表現できれば「文学者」や「芸術家」や「その他のいかした変わり者」ということになり、3)そしてぼくらは今のところそれよりさらに社会の方に傾倒している、中途半端ともバランスがとれているともいえるような状態なんだとおもった。 「病気」と「健康」は、デジタルにこっちかこっちとわかれてるわけではなく、ぬめーっとしたグラデーションなのだと、近年おもうようになってきた。 「色盲」というのも、「色盲」というひとつの「異常」のタイプがあり、それにあてはまれば「色盲」、あてはまらなければ「正常」ってことではなく、ものすごく光の波長の差を認識できない人もいれば、それよりは細かく分類出来る人もいて、さらに細かく分類できる人がいて、そして機械でも差が感じられないような微妙な差まで感じれる人だっている。 のだとおもう。  だから、べつに健常者として生活してる多くの人の中にも程度の違う軽い色盲はいっぱい紛れていて、そうだとするとあんな服やこんな服を平気な顔して着て、あんな色の車に乗って、あんな化粧して、あんなデザインしちゃうことも納得がいく。  とんでもなく頭にくる、どう考えても許せないようなくそつまらない人間も、実は「軽い知的障害」なのだとわかれば納得がいく。  だってほんとに身体的に病気なんだもん。  よく比喩で「ありゃあビョーキだ」なんていうけど、その「ビョーキ」もあの「病気」も実は結局のところ同じことを指していた、と。  しかし、だとすると逆もいえるわけで、「病気」だからしょうがないとおもっていたものも、実は「病気」なんていう限定した「囲い」がないとわかれば、つまりは「健常」と地続きなのだとわかれば、ある意味で「甘え」がゆるされないということもいえるとおもう。  自分が色盲だなんてまさか思っていなかった、タカギズム で有名な高木氏は、その異常な色彩感覚を逆手に活かして、しっかり第一線で活躍できてるし。 この人、白だとおもって着てた超お気に入りのシャツが実はピンクだったってなぐらい重度の色盲なんだから。  

2003-07-28-MON

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