No.346 オカルト

今日、「残響」の文庫本の巻末に書いてあることがあまりにも的を射てて同感だったので、お風呂でニヤニヤしてしまった。 「残響」に登場する、といっても実際に登場してくるわけではなく登場人物の話のなかで出てくる「美奈恵」ってのが、かなりオカルト的スタンスでものごとを見るのが好きなタイプの女性で、なんでもかんでも霊的なフィルターを通して考えたがる。 で、以下解説から抜粋。

概してオカルト的な思考がつまらないのは、その素朴さや単純さや短絡的なアイデアがまずいのではない。 美奈絵の「マンションの部屋って、たいてい“気”が淀むものだけど、ここはそうじゃないのね」みたいな発言からも容易にうかがえるように、オカルト信奉者はみんなが集う場所での主導権を握ろうとチンケな権力意志をむきだしにしているからこそまずいのだ。 ぼく個人はオカルトや似非科学や民間療法が死ぬほど好きで、その手のテレビ番組は欠かさず見るが、霊媒師とか霊能力者とかグルとか「事情通」が出てきて偉そうな顔をし始めると俄然いやになる。  オカルト的な思考は自らの権力意志を満たすことに夢中になって、世界の偉大な構造、世界そのものの理解へとつながるかも知れないさまざまな可能性をすべて握りつぶしているのではないか。 例えば宇宙とか世界とかの仕組みについて「心のすごく深いところでは自分一人ではなくてみんなとつながっていて、人間だけでなく動物とも自然とも交流している」とありがたそうに説明するとき、オカルト信奉者が密かに自分をその「すべて一体となった世界」の潜在的支配者に見立てているのは明白だ。

痛快。 ぼくもオカルト的な考え方は大好きで、実際まちがいなく「心のすごく深いところでは自分一人ではなくてみんなとつながっていて、人間だけでなく動物とも自然とも交流している」とおもっているから、ちょっと耳のいたいはなしではあるのだが、同時に「唯物論」的思考も併走させながらの検証を習慣づけるようにしているから、ここで解説者が叩く「美奈恵」のことは同じように叩きたい。 ほんとに、いやになるほどよくいるタイプなんだが、だれもが考えつくような「真理」に見えがちなそういった世界像とか、既存の本を数十冊も読めば誰にでも身に付くような「思想」を、さも自分だけが手にした宝物みたいになにやら絶対的なゆるぎないものとして振りかざす。 そして自分の考えに相反する意見は無条件で聞く耳をもたず、それどころか同じベクトルであっても自分の現時点での理解を超えている事象は受け入れない。 受け入れれない。 話してること、感じてることの「核」たる部分は非常に素敵なものなのに、どうもその周りをとりまく気分そのものに酔っていて、例えば学問的な見地から同じ「核」に向かっているものには、その見た目の「小難しさ」から「私の興味外だわ」と安易な判断を下し、せっかくの自分を広げるチャンスを自ら棒にふる。 結局、同じような中途半端で片意地な感じ方の連中同士でしか分かり合えず(まあホントは分かり合えてもいないだろうが)、どんどん気持ち悪い輪がふくれあがり、その気持ち悪さは誰がみいても「気持ち悪い」と分かるだけの濃度と量に達し、結局、もともときれいで正しくてステキで有意義だったはずの「あるオカルト的思考」が、「気持ちの悪い」ものに見られることになってしまう。  「ボランティア」がここまで気持ちの悪い言葉に成り下がったのも、ほとんだ同じような理由だとおもう。 どうも、そういう本来「いい」はずのものに触れて、そのエネルギーを間違った方向に増幅してしまう人ってのがいる。 既存の人気漫画をホモ同人誌にしてしまうあのパワーね。  とにかくぼくは「唯物論」的思考だけの人も、「オカルト」的思考だけのひとも、気持ち悪くてしょうがない。 「だけ」ってのにつねにつきまとう黒い影の正体は、「自己肯定」と「怠惰」に他ならない。

ちょっと今日はいい気持ちといやな気持ち、両極端な感情がはげしく行ったりきたりして、すごく疲れたので、絵は描けませんですた。 しんどい。

2003-07-31-THU

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