No.404 一周忌

ひさしぶりに自分のパソコンで一日仕事をした。 正確には半日。 実は昨夜、夜中の1〜2時ぐらいに会社で最後の刷り立ち会いがあり、その分遅刻する旨を土曜のうちにいっておいたので、安心して遅刻してったの。 家で弁当を食べてったの。  本心としては復帰するまでのちょっとしたモラトリアムが欲しい気分だけど、現実はそうはいくはずもなく、半日いただけで三つも仕事を予約された。 でもこういう日常的な仕事が久しぶりだもんだからうれしくてうれしくて、1から10まで自分色でつくれた会社案内なんて直すのも楽しくて楽しくて、めんどくさいミシンの切り抜きもさほど苦にならなかった。

ところで今日は、トラが死んでちょうど一年目の日なのだ。 10月6日。 なんとなく10(ト)6(ラ)でゴロがいい。 カレンダーにはトラそっくりのシールが貼ってあったけど、これといってイベントもない。 ミミが最近騒がしくて、変ななきかたをするんだけど、それも冬にむけて食欲が旺盛になり、ぼくらの食べ物に敏感になっていて、欲求が満たされない不満の声であって、トラはたぶん関係ない。 この家にトラのいた時間とトラのいない時間とを比べたらまだトラのいた時間の方が長いにもかかわらず、やはり新しい1年という時間は強くて、古い2年に勝る日常性を形作ったらしく、もはやこの家にトラの気配は残っていない。 少なくとも人間が感じれるような「トラ」はなくなってしまった。 トラがいたときのトラの在り方なんかをおもいだすとすごく楽しい気持ちになるんだけど、トラがいなくなって間もない時のように、いないことで感じる寂しさみたいなものは、ぼくにはもうない。 ぼくもさぽも、「死」についてなんとなく乾いたところがあって、いなくなってしまったことの直接的な寂しさ以外の、「死」そのものが持つような恐ろしさだとか悲しさみたいなものが、正直よくわからない。 わからないもんだから、どっちかというとあまりふれたくないようなこととして感じているんだけど、でも逃げるとか否定するとかとも違う、なんといっていいかわからないような、でも自分としては納得がいっているある感じ方をもっている。 「なんとなく乾いたところ」といったのは、あくまで客観的にはそういう言葉で説明できちゃうような見え方なんだろうなというようなことで、またちょっと違う。  なんというんだろう、たとえば、大して面白くもないようなことを、世の中的に面白いといわれてるからといって、無条件で「面白」がる風潮ってあるじゃない? 自分が自分の目で自分の感じ方でこころから感じて、これは面白いなぁ、と、じょわ〜っと気持ちよくなる感じと違う、大学生の遊び方の気持ち悪さのような「形」として「遊んでいる」みたいな、変な無意味な「勢い」が。  そういうものが、「死」にもついてまわってるような気がして、つまり、無条件で「悲しい」スイッチを入れるみたいなことが、ぼくはどうも賛成できないというか、違うと感じる。 ぼくが自分自身の感覚として信用できるものは、死んだ人や動物の、とても身近にいたものの「強烈な寂しさ」がこっちまで響いてきて感じるときの、あの泣きたくなるような感じだけで、死んだ人や動物の、とても身近にいたものが自分自身だったら、「強烈な寂しさ」はもちろん自分自身を襲うわけで、それはおかしな記号なんかじゃなくて、ほんとにある、強いエネルギーであり、………。    つまり、なんだかんだ、結局いつもと同じ、とにかく「自分の目(まなぐ)でちゃんとみたい」ということに集約されちゃうことを、トラをだしにつかい、「死」でもってねちょねちょいっただけですた。 なんだかまとまらないのは、それでも「死」はまたちょっと違うんじゃないかという腑に落ちない部分があるからなんだろうな。 無味乾燥にいった場合の「生活の違和感」だけでなく、思いでの総量が「悲しい」の大きさにかかわってくることとかを全然いってないもんな。 「死」でなくても、「別れ」はおなじような心の状態をつくるけど、でも「死」でないことをしっている「別れ」の方はまた意味が違う。 「また意味が違う」と自然に思うってことは、やっぱりそこに「何か」絶対的な原理があるんだろうな、とか、なんだとか、かんだとか、頭が悪いんだな、結局ぼくは。 碁はなかなかうまくならないし。   さぁ、今年もトラの栄養でよく肥えた土にきれいなお花を植えましょう。 そしてまたミミによって一日で台無しにされてしまう。 いいなぁ、そういうの。

2003-10-06-MON

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