No.406 ズキュン

秋になると途端に洋服欲がわきでてくる。 男ははっきりいって夏はどうしようもない。 スタンダードな服装にあまりにもバリエーションがないんだもの。 サイジングをとことん追求する偏執がここで身に付くのだけど、しかしやはり面白くない。 服が楽しいのは断然秋である。 このぐらい生きていると、もう自分に似合うものというのが完全にわかってきて、失敗買いはほとんどない(ただし「モノ買い【身につけることを前提としないで、そのものの、そこにある存在そのもののステキさに投資する】」はある)。  同じようなもの、色に傾倒しちゃうのはしょうがない、というか当然で、自分の形状は大きくかわらないから、似合う形や色というのも集まってくるにきまっている。 そんななかで、自分の美意識のシフトや、ふとした考え方の転換から生まれた「新しいかっこいい」というのは貴重で、一度感じてしまった「かっこいい」は実現するまで消えることはない。 ところが自分の中でもにゃもにゃしてるその「かっこいい」が現実にあるとは限らず、大抵は1年くらいしてからまさにそのものが市場にでてくる仕組みになっている。 なんでそんなことになるかといったら、結局ぼくらのなかでそだって生まれた「かっこいい」の根拠というのは、その時代の中でみんな共有してるいろんな気分によるところがおっきくて、個々の要素のズレなんてのは気にならない程度のぶれでしかなく、ということは同じ「新しいかっこいい」を、洋服をつくってくれるどこかのステキな人も同時期に心の中におもいついていて、それが具現化されてぼくらの目にふれるのまでが「1年」というスパンの場合が多い、ということなんだとおもう。  ところがやっぱり飛び抜けて早い人ってのがいて、こっちがおもいつくかおもいつかないかってときに「これ!」ってのを出してくることがある。 これが「ズキュン」。 「ズキュン」の価値が、単に「1年」早いということに終わらないことは周知。 全体の響きの干渉を受けずに、すさまじい純度をもって生まれた「ズキュン」こそが、後続のなにものも追いつくことが不可能な、最強最高の「かっこいい」なのだ。  「ズキュン」を感じたなら、なにも迷うことはない。 一年間お小遣いがなくなろうが、「ズキュン」に出会ったらそれには投資するべきだと思っている。 若い見栄にあふれ、無尽蔵の資本があると疑わないあの時代は、刹那な「ズキュン」に振り回されて傷つくこともおおかったけれど、もはやそういう不安定さはないでしょう。 不安定をとおりこし、ふてぶしさをものにし、そうして今さら感じる「ズキュン」は、それこそは真の「ズキュン」であり、「一生モノ」の称号を与えるにふさわしい至高の一品であることに違いなく、そんなものには一生で何回出会えるかわからない、というか出会えることが奇跡。

「『ズキュン』を逃したらすべてを逃す。」  我が家のモットーである。

2003-10-08-WED

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