No.475 休んで学んで祝った

寝てるのに目眩がすごくて、お腹も痛いというかつっぱるというか重くて、とても起きれる気がしない。 だるい。  会社に遅刻の連絡をして復活を願い2時間ほど眠るも、ちっとも回復の兆しがみえない。 そわそわしていつまでも寝てんだったら、さっぱりと休むことを決めて安心して寝てようということで会社に電話。 ひさしぶりの欠勤だ。  昼過ぎまで寝て、お昼ご飯に起きる。 さぽは今日は休みで、午前中からいろいろと家の仕事をこなしている。 座椅子によっかかって安静にして、ぼけっとする。 退屈なので相対性理論でも勉強しようとおもって、疲れないようにゆっくりと読みすすめる。 適度な刺激がないと、ぼくはただぼーっとしてるのが苦痛で苦痛で、肉体的には明らかにただぼーっとしてるべきだとしても、ぼくが気持ちで「苦痛だ」と強くおもってしまうことは避けようが無く、その「負の思い」は間違いなく過度のストレスとなって体に悪影響をおよぼす。 しっかり睡眠をとることで時間がなくなってやるべきことが出来ない日が続いてそのストレスによって死んでしまうようなタイプのぼくとしては、睡眠時間をけずってでも納得いくまで自分の時間を確保したいというのと同じ。  夢中になりすぎないようバランスをみながら、ゆったりと知的刺激をあたえる。  最近gooの国語辞典が大好きで、完全に自分が門外漢な分野のテキストを読みながら、ちょっとでもわからないことがあったらシラミツブシに調べて、分かるまで調べて、調べた意味の中にさらに分からない語がでてきたら、またそれを調べて、すべての枝葉までいってもどって、「さっきまで分からなかったけど今は全てわかるツリー」を作っていくのが大好きで大好きで、結局相対性理論はきっかけで、いくつもの新たなツリー作りの時間として楽しんだ。 プラトン、アリストテレスから、イデアがアイデアとイデーと同義だと知り感心し、スコラがスクールであることを知り、スコラ的・スコラ哲学というのが暗に煩瑣的であることを意味することを知り、うひゃうひゃでちょっと太い枝まで戻り、「宇宙=コスモス」がもともと「秩序」を表し、「カオス=混沌」がその反対概念であると知り、そもそも「宇宙」は「宇=天地四方の空間的広がり」「宙=古往今来の時間的広がり」を表し、ようするに「全部」という意味だったということを知り、俄然楽しくなってきて、ほんできっかけは忘れたけどもだんだん「素粒子」に興味が移行していき、「超ひも理論(物質の最小単位をとことんまでさぐっていくと、最終的には「粒」ではなくて実は「ひも」状のものが振動しているんではないかというアレ)」に行きつき、6種類あるといわれてた最小単位の粒が実は同じひもの振動パターンの違いだったとすると、それはとてもぼく好みな話で、光も電磁波のある周波帯域だったことを知った時と同等の感激で、つまりぼくは、というか宇宙の秘密にときめく人間てのは複雑で無秩序だとおもってた無限の現象がつきつめるとひとつのシンプルなモノだったりシステムに収束するというのを求めてるんだなと感じ、物理学者や哲学者てのもつまりはそういう形が明らかにされることを夢見てると、ある意味ではいってしまえるんだろうなと感じ、で、またそれとは別に、前からほっておいてでもずっと気になってた「量子力学」というのが再度気になりだして、どうもこの「量子力学」というのは現代物理学であり、そして「哲学」としての特色も強い(←このいいかたはおそらくものすごくおろかしい…ことはわかるんだけど他にシンプルにいえないぼく)ようで、保坂和志の親友であり尊敬する哲学者である樫村晴香もこの「量子力学」について哲学的考察をしているテキスト「アインシュタインはなぜサイコロが嫌いだったか?」を書いていて、これをぼくは1年ほど前にすごく読みたいと思ったことがあって、自分でテキストをコピーし、レイアウトしなおして綺麗な明朝の縦四段組みにしてプリントまでしたんだけど、しかしあんまりにも難解で読み進めることができす保留していた。 でもここで別の方向からつながってきて、今度こそしっかり読んでやるという勇気が沸いてきた。 量子論理はなぜ日常言語と衝突し、精神分析的知とは重なるのか、という副題も心ときめくでしょ? そもそも「量子力学」がなんであるかも実はまだ全然わからないのですが、なんとなくわかってることは、ミクロの世界を観察することで、つまりは宇宙の一部であるその素粒子だかひもの振動だかの性質を理解することこそ宇宙を理解することにつながるんじゃないか?というような気持ちでもってミクロの世界にはいっていったところ、そこにはいままでの古典物理学でつかってきた方程式が通用しない不思議な世界があって、で、いや「で」というか、もうひとつ大きな特徴として、「観測者を導入した物理」「確率で自然界を記述する学問」というのがあって、観測という行為が自然界に影響を与えることをも含んだ「観測」をするってことかしら?くらいにぼくはいまのとこ理解してる。「森の奥深くで1本の木が倒れた。その 音を聞く者がなかったとき、その音は存在して いるのか?」という問い対し、「存在していない」と答えるのが量子論の立場らしく、これだけ聞くとよくある「自分がみてなきゃ世界がない」みたいな浅い哲学ごっこみたいになっちゃうけれど、まあこれはわかりやすくてキャッチーなたとえで、しかしアインシュタインはこの量子論のやり口に反対の立場だったらしく、すなわち「アインシュタインはなぜサイコロが嫌いだったか?」とはそういうことをいってるんでしょう。 なんにもわかってないくせにとにかくこの哲学と科学がごちゃまぜになってる面白さを感じたことを書きたくって書きたくって全然まとまらないまま書いてしまったんだけども、今後責任を持って理解できたこととか面白かったことを報告していけたらいいなとおもております。 で、その流れでいろいろ調べてたら、なぜだかわすれたけど「ヴィトゲンシュタイン」というウィーン生まれの哲学者にぶつかった。 ドシン。  この人の思想というのがものすごく面白そうで、ちょっと調べただけでよだれがたれてきた。 「世界とは事物の総体ではなく、事実の総体である」というのが前期の彼の思想で、人間が認識できるのは、【事物・もの】ではなくて、【事態のありよう】だという考え。 つまりこうだ。 「庭の樹の葉は緑だ」ってのは、【事物】について語っているようで、実は【事態】について語っているということ。「葉自体」は【事物】だけど、そういう「葉自体」は、どこかで人間の言語のなかで捉えられるかというと捉えられない。 常に、葉を含む、【事態】の命題のなかに出てくる葉の捉え方の総合として葉とは何かという把握が行われることになる。  また、「幸福」という現象を考えると、「わたしはいま幸福」と感じている人の【事態】はあるかもしらんけど、「幸福」自体は、世界のどこにもない。「幸福とは何か?」という問いの答えは、世界には「ない」ということになる。 という、こんな感じ。 まだここに書いたことぐらいの「感じ」しかつかんでないけど、とても気になる人になってしまった。 いや、疲れた。 書き疲れた。 読み疲れた? もういない? ところでこの「ヴィトゲンシュタイン」、実は前にさぽからその名を聞いたことがあったのだ。 さぽの友達のノリちゃんという才女が、なんでもこの「ヴィトゲンシュタイン」の哲学書をなんと原文で読んでいて、うんと面白いからとさぽにすすめていたのだ。 さぽはそのとき図書館から借りてきて読んだらしいのだが、やっぱり哲学、しかも翻訳は、単語の使い方にいちいち癖があって慣れるまで我慢できずに面白さの神髄にふれるまえに断念したらしいのだ。 ぼくも当時は別にくらいつくこともせず、ふーんと流してたんだろう。 チボーでいっぱいだったか? でも、結局、巡り会うモノには巡り会うんだね、自然と。 おもしろいもんだ。

さて、いやになるほど長くなってしまったが、今日は実はなんとうちのさぽチャンス大先生のお誕生日。 25歳。   先生、どうしてもケーキが食べたくなってしまい、歩いてオーバンに行くというので、しげぽ隊長それは無茶だと休んだ身でありながらオーバンまで車をだす。 で、イチゴのショートとモンブランとお菓子とマスクとチーズを買って帰る。 しげぽ隊長は一日安静にしてた甲斐あってかなり体は楽になってて、楽しく夕食&ミニミニ誕生会を楽しむことができた。 パーティー本ちゃんは今週末、ボーノにて、うひゃ!  さぽ先生、お誕生日おめでとうございました。   

2003-12-16-TUE

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