No.476 誤魔化し

いやー、むずかしい。 樫村のテキストはぼくにはまだまだむずかしい。 「アインシュタインはなぜサイコロが嫌いだったか?」がちっとも気持ちよく読み進められない。 そもそも量子力学が全然わかってないというのが一番大きい問題なんだろうけど、それを抜きにしてもやっぱり単語使いに癖があるんだよな、哲学系の文体は。 むずかしいんだけど、分かったらとんでもなく面白いんだろうなっていう印象はいやってほど伝わってくるから、これがくやしい。 で、それゆえ楽しい。  自分にとってとんでもなく難解で、しかしそれを乗り越えるといまだかつて味わったことがない「知」を味わうことができると約束されてるものってのは、自分の周囲の情報はもちろんのこと、そのモノそのものがもつ「勢い」のようなものでも直感的にわかる。 あ、こりゃすげーぞ。と。  この人のテキストは確実にそれを感じる。 まあ保坂の太鼓判つきだし、扱ってる内容もあからさまに面白そうなんだけどね。 で、ここにどういう経緯でテキストデータになってるのかはしらないけど(おそらくはサイト読者の善意かと)幻の樫村テキストがしこたま掲載されているので、興味のある方はぜひ。 わかる人はいきなり楽しめるんだろうな… うらやますい… 

風邪で仕方ないとはいえ、一日休んだことへの「負い目」というのがどうしてもある。 ぼくはY軸回転で体を何周か回転させると、どうも地球の中心とぼくの足下をつなぐ平たい輪ゴムにねじれが残っているような気がしてしまい、同じ回数だけ逆に回転しないと気が済まないという変な感覚があり、それと同質のモヤモヤが欠勤したことでつきまとう。 すべて出る気でいた週の中日に「急に休んだ」というのがポイントなんだと思う。 だので気分良くこれからの日々を過ごす為には、今日一日で2日分かそれ以上の働きをしなきゃいけない。 そうすることで、いま自分の中で「マイナス」になってるなにかのポイントを戻してからでないと、なにひとつ心から楽しめない性質なのだ。  しかし最近つくづく感じるのが、自分自身を誤魔化さなければ、どんなことをしてても日々満足できるなということ。 怠けたり、さぼったり、見ないふりしたり、知らないままでいいやと割り切ったりすることは全部自分を誤魔化すことで、もちろん現実世界の物理的、社会的制約の上に生きてる以上、大半を誤魔化していかないと存在すらあやういんだけども、しかしそれでも出来うる限り自分を誤魔化さないってのが、なにより楽しく生活していくための最大のコツなんじゃないかと。 なにが「幸せ」かを考えたら、ぼくの場合誤魔化さないで一日を過ごせたときの帰り道のあの「気分・体調」に他ならないとおもうのさ。 仕事の達成感とか、そういう限定的なことでなく、生活全般に誤魔化さなかったということ。  ほんでそれが発展して最近さぽと意見が一致したんだけど、「何」をしてようと、ほんとに「何」をしてようと、ひたすら誤魔化さないで、同じパワーをつかって同じ年数生きれば、人は同じだけなにか「いいもの」になれるんではないだろうか?という仮説。 便所くみだろうが、連続殺人だろうが、建築設計だろうが、痴漢だろうが、社会福祉だろうが、芸術だろうが、政治だろうが、オナニーだろうが、適当にやんんないで、納得いく取り組み方を続ければ、当然身に付くスキルや表層的な性質は偏るだろうけれど、しかしなにか「芯」の部分は全部同じ「いいもの」に向かっていくんではないかと。 で、ぼくとして画期的なのが、なにも一個のことに執着しなくてもいいんではないかと思えたこと。 いや、この言い方はどうとでもとれるか。 つまり、以前ぼくは広く浅くだと「あるレベル」からはまったく通用しなくなるというような考え方だったんだけど、しかし問題は「広く浅く」とかそういうやったことの配分ではなく、同じ時間を使ったときの、自分自身の「パワー」の使い方なんじゃないかということ。 つまり誤魔化さないで、出し惜しみしないで、最善を尽くしたかどうか。 最善を尽くすというのもやっかいで、「最善を尽くした気になる」と「最善を尽くす」と「最善を尽くしたい」でも全然エネルギー量がちがって、というか「最善を尽くした気になる」は結局長いスパンの誤魔化しの恐ろしい結果だから、うんとやばい。 収集つかなくなってきたけども、とにかっくん、なにをどういう配分でやろうが、同じエネルギーを費やした2者は、同じだけ魂の根っこのかっこよさがあがるんじゃねーのか?ということを二人して同時に考えてたのさ。 うんあ。 で、今日ぼくは納得行くエネルギー量を放出して、しっかり二日分働いたもんだから気分がいいの。 うな。 ごきゅ。   

2003-12-17-WED

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