No.487 飛躍しすぎた…

うっかり遅くおきてしまった。 初日からこれではだらしがないと、急いで朝ごはん、日記、昼ごはんとぎゅっとつめて挽回。 いつのまにか買っていたアトムに感激し、最終ステージに向って飛んでいるところにさぽ帰宅。 買い物にいくべというのでヤマザワへ。 ポイント10倍セールに満足し、さぽが今日は外食の気分だというのでぼくもワクワクしてきて、ひさびさにボーノへ。 しかし時間がはやい。 まだ5時。 ただでさえ今日は朝、昼と中央にぎゅぎゅっとつまってしまったのに、夕食まで中央よりに。 これでは顔のつくりがまん中に集まった人のようだぞととりあえずいってみて、それで満足してボーノへ。 鴨肉を赤ワインで柔らかく煮込んだ料理のミニコースを食べ、食欲に火がついてしまう。 M-1グランプリの決勝が7時前からはじまるとさぽがいうので、急いでかえる。 お菓子を買ってかえり、うはうはでテレビ。 年末くさくてしあわせ。 M-1は中にはさむいのもいたけど、さすがに凄まじい数を勝ち抜いてきただけあってレベルが高い。 すべてをぶちこわしたものすごく新しいやりくちの人もいて、ぼくは未完成ながらも(そもそも未完成的ななにかがベースになってるわかりにくい笑いなんだからながらもというのは媚びたいいかただ)圧倒的にそういう人が好きだけど、やはりプロとしてはそこはいただけないというか選ぶわけにはいかないなにかがあるんだろう、最終決戦まではやはりいけず、しかし残った3組のうちのひとつ、「笑い飯」というコンビはそれともまた違ったすさまじい歪みをもった新しさをもっていて、どんどんどんどん先にいかれる感覚が最高で、笑いが段違いにかっこよく、ぼくもさぽも圧倒的にその人らを応援したんだけども、最後の評価方法が点数式でなく3組のどれかひとつを選ぶという方法だったため、惜しくも3対4で負けてしまった。 一票もはいんなかったところが一番おもしろくなかったかといったらそういうことではなく、この「3組のどれかひとつを選ぶという方法」の良くない面がでてしまった結果だとおもう。 だって、南原が「えい!」と選んだその「現象」に、どれほどの意味があるだろう? 本人らの実力に、南原が「えい!」と選んだその「現象」がどれほど関わりをもつだろうという話。 最後も点数にするべきだったなー。 そしてぼくにも審査権をくれるべきだったろうなーといってみて、といってみてなんていってる、いや、といってみてなんてうってるぼくの手はものすごくかじかんでいて、いっこくも早くこたつに手を突っ込みたいんだけど、もう一気に書き上げてしまわないと気持ちが悪いから、なんてうってる先からもうひとつ書きたくてしょうがないネタが浮かんでしまった。  お風呂にゆっくりつかりたいなとおもって、アインシュタインの謎を解くっていうものすごくわかりやすくておもしろい本をもって入ったんだけど、まあまだアインシュタインは出て来なくて、その準備として質量とはそもそもなんなのか、電磁気とは一体なんなのかという下地の部分を読み進めた。 この本、数学的アプローチでなく、日常的イメージで、読者がしっかりと納得いくまで教えてくれるという書き方をしているからほんとに面白い。 もちろん数理的な概念なくしてイメージもしようがないので、そこを飛ばしているわけではなく、なんとか言葉で、日常のイメージから飛躍しないように上手に丁寧にがんばって説明してくれているのがとてもわかりやすいのだ。 で、「電気」と「磁気」、総称して「電磁気」のところを集中的に読んだんだけど、むちゃくちゃ面白い! そもそも電気ってなんのこっちゃ? 磁気ってなんのこっちゃ?というのを知らない人ってのは多いとおもう。 なんのこっちゃ?というのは、授業でならってこういうものがあってこういう公式であらわされてこういう風に活用されてて、なんてことではなくって、ぼくたちが住んでるのと同じ世界に存在してるこのなんだかわけのわからないこの存在、現象を、なんというか、等身大でリアルにイメージできるかどうかという観点での理解。 なにをいってんだ? うんと、たとえばかの有名なファラデーさんは数学的な基礎訓練が足りなかったせいで、というかおかげで、なんとかイラスト的イメージで現象を把握しようとがんばったために偉大な功績が残せた、といった場合のその「イメージ」「把握」のところ。 「磁場」ってなに? といわれてもなんだかわかんないじゃない、普通。 磁石がくっつくのはあくまで「磁場」がそこになぜか絶対的にもつ「空間の特性」に磁石の性質が従った結果でしかない。 電気だって人間が実感できることといったら静電気が光ったときのその「光」とか、ビリビリの「痛み」とか、そういう二次的なことだけじゃない。 実際的な納得いくイメージができてる、専門以外の人って少ないんじゃないかしら?ということがいいたかったの。 磁気と電気の相互の関係とか、実体らしきイメージとか、そういうのを詳しく知ろうとすればするほど、なんだか「こむずかしい勉強」みたいなニュアンスのアプローチが必要になってきちゃって、どうしても門外漢なワタクシたちはあるラインから踏み込むのを敬遠しがちだけど、そういう偏見はほんとにすごく邪魔なもので、いってしまったら「磁気」とか「電気」とかいう言葉、固有名詞さえも実は純粋な日常と地続きの好奇心を、ぶっちりと遮断してしまうマイナス要因なんだとおもう。 「磁気」「電気」といってしまった時点で、もう頭のなかで「自分の日常とは関係のない専門的ななにかむずかしい学問、サイエンス」ということになってしまって、まさか自分が立って歩いていることその行為自体が、ほとんど電気によって成り立っていることなんか考えもしなくなってしまう。 骨が形成されるのも電気力によるイオン化結合によるものならば、筋肉が動くのも炭酸化合物の酸化(これも電気力)のおかげ、さらにその動きを命令する神経の伝達さえも電気的なパルスで、さらには遺伝子の情報もイオン化結合で形成される。 いっちゃえばすべての生物は電気の力で存在しているようなものなのだ。 もっといえば(ここからはぼくの勝手な妄想)、電子の動きの回転運動というのは「波形」の一番ミニマルな形状といえるし、「超ひも理論」でいえば物質の最小単位も弦の振動と考えられ、世界のどうも絶対的存在ともいえそうな「光」がふくまれる電磁波だって波の性質をもっていて、わかりやすい身近なところでいえば気体や水中でもエネルギーの伝達というのは圧縮を逃がす波(音、水の波紋)だし、人間の「脳波」だったり長いスパンのバイオリズムを図式化することから連想すれば自転、公転等の「周期」という概念自体「波」のことで、なんだか宇宙は大きいのから小さいのまで、同じ「波」という概念の集まりなんだなと最近感じてきてて、おもしろい。 ミクロ=マクロ、フラクタル、どうもそういう微分積分的「無限」感こそが「宇宙像」として感じられることがぼくは快感で、快感で、やはりカオスではなくコスモスに向いたい性質が生物には、というか宇宙に存在する「波」である以上その「理」にかなおうとするのが当然なんだろうなと思い、すごーく納得するの。 波と波が干渉したり、相殺したり、そういうことは宇宙の「原理」なんだろうから、ごくごく狭い、限定的な、宇宙的になにも意味のない「人間の理性」というのが、いろいろと無理が生じてどうしようもないいざこざがおこるのはしょうがないんだろうなと、どこかで思っておくことはある意味で大事なんじゃないかしら。 たとえばs盲目的に争うな争うなということは、あるいは人間同士の干渉を引き起こして意味があるかもしれないけれど、それはそれでかたよった流れを大きな流れの中に生んでしまって、宇宙的にバランスが壊れてしまうかもしれない、とかいたところで、しかし結局はそれもさらなる大きな流れの一部分でしかなく、つまりはやっぱり「波」のイメージに全ては支配されているのだなとつくづく実感させられる。 波形を微分した波形の一部分を微分してまた現れる放物線の下り坂をさらに微分すればそこにはまた波形が現れ、大きな流れの下り坂といえでもその中には多くの浮き沈みがあることを知り、最小が有るのかさえ永遠に突き止められず、そもそも始めに設定した「波形」が最大かも不安なもので、といういよりおそらく最大などでは決してなく、そもそも行き止まりがあるというイメージの方が無理があることに薄々気付き始め、つまりはこれが「無限」ということなんだわ。 イコール「宇宙」。 果てしなく不安であり、果てしなく安心でもある。 生と死さえも同じ流れの上にある。

こんなことをかくつもりではなかった… ただ磁石の作り方の原理が面白かったからそれを書こうとおもったのに…

2003-12-28-SUN

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