No.511 間

あたまから氷川のうたう「く〜ろまめーコーコーア、イソフラボンジュ〜ル」が離れない。 大変だ。  「ココア」から「イソフラ…」につながるところのちょっとおもったより長い「間」がどうにも丁度いい。

「間」「スペース」等の「無い」部分というのは「ある」よりもずいぶん大切だし、礼儀をしらないととても操れないもんなんだけど、礼儀をしらないと操れないという狭き門障害のためにその重要性がマスに理解されないことが毎日毎時間毎分あってさぞストレスでしょう?  ぼくの場合問題となるのは字のごとくストレートに「ホワイトスペース」のことにつきるんだけど、いまだ常識的なレベルでの理解が得られないことがしょっちゅうでめまいがする。 かりにも21世紀なのにだ。 極端な話、白いところ、隙間がなかったらあなたの読んでいるその新聞の紙面は真っ黒になってしまいますよといってやりたい。 「字」てのは隙間があるから「字」なんであって、隙間がなくてすべての「塗り」が密着してたらただの「ベタ」である。 さすがにそれはわかるらしい。 が、話が少し高級になってブロック単位の文字群同士の隙間とか、行と行の隙間とか文字一個と文字一個の隙間となると、とたんにやつら、方向感覚を失う。 可読性、印象、内容の浸透性、「隙間」ひとつの設定でどうとでもできるというのに、そこの重要性には冗談みたいに無頓着。 おそらく無意識に自分の生活においては適切な「間」が設定されてるものを選び、心地よいと感じているはずなのに、自分が内側にはいってしまうととたんに盲目になる。 そして絶望的なのが、おしえてもおそわらないという態度。 気づかないのは百歩ゆずってしょうがないにしても、おそわらない態度はくさっている。 こんなにも「おそわるべき」好シチュエーションでおそわろうとしないということは、あらゆる現象において、「ある時点」で学習をとめちゃってるんだろうと予測でき、すなわちあの言動、あの服装、あのイントネーション、あの重心移動、あの目あの口、すべての気持ち悪さの説明がつく。 毎日毎日「隙間」とたたかっているからそんなに「うるさく」なってるだけかと思われるかもしれないが、しかしそんな限定的な戦いの日々以前だって、「ただしいすきま」と「ただしくないすきま」のみわけぐらいついた。 体系的にとらえられないむずかしい事例だって、アドバイスをもらえたらよろこんでくらいついた。  美意識なんてわざわざいうまでもない、なんといおうか、かかわった現象に対する人間としての最低限の礼儀ぐらいのもので。

つまるところ礼儀しらずの人らってのは簡単に「芸術」とかいう言葉でなにか「線引き」してよくわからないけど安心しちゃってる人で、自分を「芸術外」と位置づけて、世の中にはなにやら「芸術」とか「美」といった特殊な限定的なジャンルが存在してて、そういうところに拘っている「かわった人種」がいるらしいねー、くらいのつもりで生活しているということだと思う。  残念ながら、根本的に、おおきな誤解をしていらっしゃる。 「言語」を操りだした瞬間から、あなたがた、その得体の知れない「美」という概念に完全にずっぽりおさまってしまっているんだじょ。  わざわざ「美」とか言葉にしちゃうからなにか分けて考えられる限定化可能な概念みたいに都合良く信じ込んでるみたいだけど、そんなのは単なる利用しやすいための記号でしかなくって、もう森羅万象すべて、言語でもって認識してることそのものが「美」といわれる尺度を利用しているということに他ならない。  「おれは芸術はわかんねー」じゃねーよと岡本太郎もいってるように(前にもかいたけど何回でもかく)そんなのはあり得ない。 人間が、言葉で、「おれは芸術とかわかんねー」ということほどパラドックスと呼ぶにふさわしい好例はないんじゃないかしらってぐらい、力いっぱい矛盾している。 すがすしいほどに矛盾し倒している。  この矛盾をみんな意識するだけでもずいぶんと気持ちよい町ができるんだろうけど。 ちなみに、そんな矛盾に無頓着でどうしようもない人がいてこそ面白い、自然な、あるべき世の中なんじゃねーかという感覚も、実はさらに複雑な美意識遊びだってことが、もう全部をあらわしている。 おれは服装にこだわらないという姿勢こそが情けないほどに服装にこだわっているように。

2004-01-21-WED

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