No.522 M

結局なんだかんだいってみんな自分を簡単に高いところにおきたがる。 実がともなっていなくても無意識にそうしたがる。 そうしたがる人を軽蔑しているのに、自分はしらずにそうなっている。 人のそういうところをみてがっかりすると、その直後に、そうやってがっかりすること自体、外から、上から見てる態度というのが前提にあることに気づき、自分の情けなさにびっくりする。 空気のつもりであらゆる非を咎めている気になっても、結局自分自身大いに咎められるべき醜い魂であり、客観達観ゲームもむなしく、ばからしく、かなしく、ほんとうにどうしようもないくだらない自己肯定のぶつかり合いとしか世界が見えなくなってしまって窒息しそうになる。 そう見えてしまうということは実際に世界はそういう自己肯定のぶつかりあいでしかない絶望的なものだし、全てが尊ぶべきステキな意志、愛情の重なりだと感じるなら、世界は本当に実際にリアルにそういうすばらしいものなんだろう。 おもったからある、自分の中の世界でしかない、目をつぶれば世界は消える、あったことのない人は存在していない、とかそういうベクトルの話なんだろうけど、もっと直接的に、「そう感じるのであるならそうじゃない理由があるだろうか?」というぐらいに、「自分とかかわる部分の自分にとっての在りよう」と「絶対的な実体」というものを無理矢理区別する意味は、価値はあるのだろうかと。  ぼくにとって世界はどういうものか。 ぼくはなにをどう考えればいいのか本格的にわからなくなってきた。 いろんなもの全部大好きでずっと関わっていきたいような気もするし、全てのモノが気持ち悪く恐ろしく、一切関係を持ちたくないような不安も感じる。 どこの深さに視線を定めるかで、あの人やこの人が天使にも鬼にも見える。 おっかない。  おっかなくて筋肉がうごかなくなる。  それにしてもなんでみんなひとに余計なことばっかいうんだ? と、これも一概にそうともいえない。 義男にとって余計なことでも明美にはとても為になることかもしれない。 それをいった知治が明美よりちょっとだけ大人で義男の良さとか懐の深さをまだ理解できてないのならそれもしょうがない。 結局、しょうがない。 全部しょうがない。 人と人。 あわせりゃM。  またMか…

2004-02-01-SUN

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送