No.553 「意識」あるいは「魂」とよばれる「あれ」について

「意識」について、いまだかつてないくらいさぽと語り合った。 小学生くらいから、「宇宙」とか「死後」とかと同じくらいメジャーなテーマとして、「意識」についてはよくお泊まりのたびに天井トークをしたものだけど、今日ほどしつこくつっこんで考えたのははじめてだ。  まず、なんでこの「意識」とか「魂」とか「心」とかいわれるような、生き物の生き物としての特別な部分である「自分を自分としているこの得体の知れない確かな存在感ある思念」みたいなものは、常に、ほんとに常に、「体」につきまとっているのか? 「体」に対する「意識」の関係というのは一体どういうものなんだろうというのが急激に不思議でしょうがなくなった。 意識とは、本当に「脳」という内臓(?)の電気信号の行き来でしかないのか??  仮に「意識」が脳の中でおこっている科学的な反応でしかないと考えたとして、その、ほかの多くの「意識を伴わないであろう現象」と、さして見た目にかわらないようなありふれた「現象」のなかに、どうしてこういった「自我」というものがわきおこるのか。 その差はなにか? そしてわきおこった自我を認識しているのは誰か。 自分とはなにか。

「意識」の位置を考えてみる。 なんとなく、頭の真ん中あたりにつねに「存在」しているような気がする。 が、これは単に「目」が光を取り込んでいる位置ということでしかないとおもう。 一番多くの、わかりやすい、「意識」が認識しやすい情報がはいってくる位置がこの位置なだけで、「意識」の位置とは関係がないとおもう。  なら、目をつむってみてはどうか。 それでもまだ「頭」に意識があるような気がする。 こんどは聴覚の影響を強く感じる。 視覚をなくした、次に「位置」を確認するために重要な感覚は間違いなく聴覚である。 対になっているのがその証拠だとおもう。 では、目も耳もつぶされたらどうなるか。 それでもまだ、頭にのこるような気がする。 味覚、嗅覚がまたしても頭部に集中している。 ならこれも奪ってしまう。 その人の意識はどういう刺激を受けるか。 おそらく想像では、ドローーンとした黒いのか白いのか赤いのかよくわからない「闇」に、これまた無音なのか轟音なのかわからないどっちにしても強烈な「音」、感じるのは全身の衣擦れだったりあるいは風のあたる感じ、何かに接しているところから直にくる温度、圧力の交換、それらが全身に均等な割合でもって(頭部に集中せず)分散している。 インプットとしての頭部集中は完全になくなった。 インプットがなくなったからには、意識が考える内容はそれまでの「記憶」だけになる。 もはや新しい刺激はない。 いや今はまだ触覚が残っていた。 触覚も断つ。  ………   これで完全に空中に浮いたような「記憶」だけの存在になったはずだ。  以前歩いく時に送っていたのと同じ指令を送って、実際にうまくいって歩いたとしても、もはやなにもリスペクトされないのだから、それは「意識」にとっては「何もしなかった」こととなんら変わりがない。  こうした状態で、「自分自身」の位置を記憶からの連想である「意識」は、どこだと感じるだろうか。  それでもまだ「脳」の位置に固執するだろうか。

今度は、いったん全ての感覚をもとに戻し、体のほうからどんどん削っていく場合を考える。  まず、下半身を切り落とす。 「意識」はどちらに残るか。  切り落とした足、ではなく、間違いなく上半身サイドであろう。  それは分かる。 手を切り落とす。 「意識」は胴体と頭に残る。 思い切って首から下を落とす。 死ぬ、のはまずおいといて、はたしてどちらに「意識」はつくだろうか?  なぜかしらないが、「頭」だとおもってしまう。 これは、どうもインプットが集中しているかどうかということをこえた、なにか絶対的なことのように思えてきた。 その証拠に、さらに頭だけになったところからさらに目を奪い、耳を奪い、鼻をつぶし、舌をぬく。 どうだろう。 目や、耳や、鼻や舌に「意識」が残るのはどうしても想像するのが難しい。  やはり、脳か…    しかしあくまでこれは、体のいろんなものと結びついてはじめて健康な脳といえることを無視した思考実験でしかなく、どんどんけずっていって脳単体となったときに、はたして健康なとき(生と死のバロメータとしての健康ということではなく、機能が間違いなかったかどうかという側面における健康さ)と同等に「意識」が存在し続けられるかというと実に怪しい。 脳がそもそも他の器官との関係ありきでなりたっているとしたら、この方法では間違った判断をしてしまう。 

もっと前にもどって、ほんとに「意識」=「記憶の総体」は全てがずっと自分の体についてきているのだろうか。 こうなってくると「意識」の定義からしなきゃいけないか。 たとえば、生まれてから今まで、様々な記憶が脳に定着して、同時にそれが「意識」にどんどん組み込まれていって、「意識」のポテンシャルはどんどんどんどん大きく深いものになっている、というような「意識像」、ようするに完全に「意識=記憶」と考えた場合と、もうひとつ、「記憶」というのはあくまで「脳」の記憶媒体としての機能によって蓄積された「情報量の増加」=「物理的な細胞の増加」のことでしかなく、それをリアルタイムでひっぱりだして考える、その「考える」部分のみをさして「意識」とするかの、大きく2パターンにわけられるとおもう。 ぼくは、どうも後者の考え方でいくと、「意識」というのをもっと面白い見方で考えられるんじゃないかとおもった。 例えば、学校帰り、なにかを考えながら歩いて家まで移動していったとして、「意識」というのはどういうことになっているか。 単に「記憶」のことを意識といってしまった場合、それはいままでどおりのあたりまえの捉え方で、ぼくの肉体と歩調をあわせて、およそ頭の位置に固定された「意識」がぼくと一緒に学校から家に移動していったということになるわけだが、しかし瞬間瞬間、その場所であらわれた考え、脳の刺激、神経伝達のパルス、つまりつきつめたら「磁場の変化」のことを「意識」と呼ぶとしたら、さまざまな考えが、「意識」が、肉体がとおった道をなぞる線のように、シャッターをあけて夜の道路を撮影した光の線のように、「残る」とは考えられないだろうか。 しかもこれだって勝手にその空間に定着静止するという前提のもとになっていて、ほんとは「出た」瞬間に放射上に飛び散るものかもしれないし、物質と同じように地球の重力によって1Gで落ちるのかもしれない。 その場にとどまるにしたって、こんな得体のしれないものが地球と相対的な動きをたもつのかだってわからないが、さっき「電磁波」といった手前ここ地球の「系」にしたがって相対的に動いてもらうことにしよう。   残留思念ってのがある。 自殺の名所とか、強烈な思念がついた場所に立つとその思念が自分にはいってくる。  嫌なムードがこもっている部屋なんてのもあるし、はいった瞬間に楽しい気持ちになる場だって確かにある。  直感的に相手にピンとくるなんてこともある。 こういうのはつまり「意識」が完全に「内側」のものではない証明にはならないか?  自分が常にひとつながりの「意識」を自分のなかに保って一緒に移動しているなんて考えは、そもそも勝手な感覚的な、それこそ「視覚」とか「聴覚」の影響うけまくりの感じ方であって、ほんとはどんどん外にこぼしているようなもので、自分のなかで自分とかんじているのは瞬間瞬間の、生まれたての意識のことでしかなく、「自分と感じる」ところってのはつまりその生まれたての「点」みたいな「意識」を連続でおっていったもののことだから、そりゃ当然いつも「自分の肉体とともに動いて、自分から離れない」ように感じるわけだ。  ホースが「肉体」だとして、水が「意識」。 「意識」そのものは連続的に放出され、肉体を離れその辺にちらばって蒸発したり誰かにすすられたり、誰かを濡らしたり、湖にたまったりする。 しかし、自分を自分と感じるためにホースの内側に設置された「自分感知センサー」は、常にホース内部にある水こそが「自分そのもの」だと思いこんでいる。 これが入れ替わっていてさっき自分だとおもってたものがまさかもうすっかりなくなって外にでていってしまったなどとは気づかない。 ホースのなかには常に水がはいっていて、なにか流れのような動きは感じるがつねになくならず、ホースが朽ち果てるまで、いつもかわらず同じところに共存する、と考える。  しかし、苦し紛れにホースの内側に設置された「自分感知センサー」なんて反則をつかってしまったが、これに相当するものがなんなのかわからない。 あるいは内部の水そのものがそれに相当するのか。 すぐに外にでてなくなってしまうその水こそが、実はホース内部にいる間だけ「自分感知センサー」の役割をはたし、次の水にその役目をリレーしながら自分は肉体をはなれ、という。 なんだかその方が自然だ。 流れ出る意識そのものが意識を確認する役割もはたしていて、「自分」というのはその役割を果たしているときの「意識」の連続のことだから、当然常に頭、脳の位置にとどまっているように感じられる。 納得がいく。

つかれたのでもうおわりにするけれど、肉体が朽ちた後、こんこんと湧き出ていた水は枯れてなくなってしまうのかという大きな問題が残る。 また、興味深いのは、すでに出ていった大量の水は、「自分」と呼べるのかということ。 誰かを濡らし、誰かに飲まれ、どこかにたまった、かつてたしかに自分と感じた、そしていまだって自分であるはずに違いないあの「意識」というのは、肉体が朽ちたあと、一体どういものと考えればいいのだろうか。  「あいつはしんじまったけど、おれたちの心の中にいつまでも生きているぜ」みたいなことが、急激にリアルなことに感じられてきてしまった。 ほんとに、現実的に、そういうことなんじゃないか?と。  おれがばあちゃんを思い出せば、そこにばあちゃんの「意識」は「精神」は現れたといってしまっていいんじゃないか?と。  また、いつも一緒にいると考え方が似てきたり、同じコトを同じタイミングで考えたりすることがよくあるけど、あれって、ほんとに意識が半分ずつ交換されて、複数の人間のハイブリッドが現実的にできちゃっているんじゃないかしら。 より影響力のある人間の割合が多くなったりしつつ…

って、あーーーー!!!!!!!! 今日はほんとはミミのお誕生会で、そのことを中心に書くはずだったんだ!!!! おもわずはまってしまった!!!!!  お誕生会のことは後でぜったい加筆するから、ミミちゃんごめんなさい。 今日はつかれた…

2004-03-03-WED

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