No.555 読了

今日、夜の12時すぎくらいに、罪と罰を読み終えた。 最後の100ページくらいは完全に作品世界にシンクロして、まったく集中力をみだすことなく一番気持ちいい読み方でいっきにいけた。 すごかった。 スヴィドリガイロフのはった伏線が、ラスコーリニコフの運命にどう影響するのか、最後の最後まで読めず、常に3ページ先をのぞいてしまいたくなるような欲求にたえながらのラスト。 理論によって正当化された殺人、その後彼を苦しめる呪縛が、その罪の気持ちなのか、それともナポレオンのようにそれをひょいと乗り越えられない小心の自分への憤りなのか、どう受けとめるべきかという問題が最後まで彼を苦しめた。 登場人物たちはみな、殺人そのものを単純に「非人道」であるなどと彼を非難するのでなく、そうした理論、そうした苦悩、孤独と病的な精神、彼のもっと先にある誠実さを愛し、その価値を見い出しているのがたまらなく素敵。 ドスト氏自身が、そうした理論、つまり、人類を凡人、非凡人に大別し、大多数は凡人であって現行秩序にただ材料のように服従するように出来ていてしたがってそうする義務があるものとし、選ばれた少数の非凡人は人類の進歩のために新しい秩序をつくる人で、その現行秩序を踏み越える権利をもっている、という、どの時代にも急進的な青年ならだれしも感じ、議論するであろう理論をもっていたひとりであり、実際に文壇でもその異常心理への病的な関心、空想社会主義への憧れをもって革命をよしとした(つまり終極的に人類の福祉に貢献するならばその過程での殺人は肯定するという信念をもった)過去があり、そのため当局から見せしめのために銃殺されるすんでのところまでいったのだが、皇帝の特赦と称してシベリア流刑の判決をうけ、そして獄中での長い苦しい内省を経て、そののちに空想社会主義からキリスト者へと、内部での急激な価値転換がおこなわれた。 そういう自分の中での劇的な価値転換を真摯に、まさに旬のうちにぶっつけた作品だもんだから、単にこれがただしくてこれが間違いなどという2極の価値観にはおさまらぬ、本当に人間の中のリアリティーのある矛盾しあった様々な想念のドロドロが見事に描かれていて、そういう極端な青年の苦悩の理論への愛にあふれ、また同時に博愛と自己犠牲のキリスト者への愛にあふれ、さらに現在にも未来にも展望をもたぬ、絶望のニヒリストへの慈愛にもあふれた、とんでもない大きなテーマ、人間社会すべてを、丁寧に、水一滴こぼさずとらえたすざまじい名作が生まれたんだろう。 めくるめく価値転換に、ぼくは常にぐらぐらに翻弄され、こっちに乗っかてはまたおろされ、こっちに乗っかてはまた降ろされをくり返しているうちに、自分自身の信念の甘さ、というよりは信念というものにのっかることの甘さなんだろうか、そういうことをとても自覚させられ、いろいろと反省するべきところがあらわになり、特に、異常心理や苦痛が内面にはらむ「差異による優越」というものへの認識がより深まり、それを愛する心とそれが持つ汚らしさを嫌う心が両面をたもったまま成長して、それがどう作用してどういう効果があったのかはわからないが、最後にのこったのは、ワナワナ、ジュワジュワ、シュクシュクとした、喜びとも怒りとも悲しみともつかない異常な興奮、気持ちの高揚で、しかしぼくはそれを「気持ちいい」と感じていることだけは確かで、もっともっとこの人の作品を読まなければ!読みたい!という衝動がつきあげてきて、次に読むなら「白痴」と決めていたのですぐに八文字屋(そのすぐちかくで読んでいた)に行こうと時計をみると、すでに12時をまわっていて、がっくし。  うーん。  ワナワナ…

2004-03-05-FRI

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