No.560 死活

ひとりでやってるページものが重なってきて、これらの納期がみんな3月中とか4月前半に集中してるもんだからそろそろちっとやばいなー、なんて思って、G5への移行も具体的にどうするか考えなきゃなー、なんて思って、気が重いけどそれにしても今日はそろそろ帰ろうかってとこに、半年も動いてなかった16ページもあるパンフレットが急にもどってきて、その提出がこれまた来週頭につくらなきゃいけない16ページの新規のページものと見事にかぶり、なんだか本格的にどうしていいのかわからない。 3月ってのはこういうもんだ。 忙しいってことは人間としてフントに恥ずべきことだ。 フントにばかばかしいことだ。 いまのところぼくはそういう風にしか考えられず、異をとなえる人のことは可哀想だとしか思えない。 心があって分別がないおばかさんも、分別があって心がないおばかさんも、どちらも可哀想だとリザヴェータ夫人は娘にいってた。

家に帰るとさぽが例のこんにゃくそばを作ってくれた。 たらの芽の天ぷらも揚げてくれた。 いつもうまい。  なおぺから囲碁の本を借りた。 ゆっくり白痴を読もうと強い意志でもって囲碁を遠ざかっていたのに、まったくとんでもない面白本を貸してくれたもんだ。 死活が、かつてないほど、地に足ついて力になっていくのがわかるすばらしい本なのだ。 こういう順番で、ここを目標に考えていけばいいんだ! と、大興奮でお風呂にはいって読んでいたら、いつのまにか2時間近く経っていたらしく、あがるともう深夜だった。 体ぽかぽか。

なんとなく外にでてみたら、自分があったかいのもあるけどそれにしても夜中とは思えない信じられないくらいやさしいやわらかい空気で、感激して身支度してひとり散歩に出かけた。 夜中の散歩は楽しい。 余計な人間的な意識が必要なくて、ものすごく原始的な感動だけに気持ちが支配されて、ほんとに楽しい。 暗いし人も車もいないし、どんな歩き方をしてもどこで背伸びをしてもどこで深呼吸してもなにひとつ外側からの自分のことを意識しなくてすむんだもの。 空気か魂にでもなったような、自分の存在がどこまでも無に近づいたような、すばらしい透明感、開放感。 常に、ほんとにいつもこうありたいが、いかに自然体を保とうとしても、まわりに目があるかぎり、どうしたってその「自然体を保つんだ」という不自然な意識が現れることに「なっている」から皮肉だ。  だから夜中の散歩というのは日常でほとんどありえない、町にいながら空気になれるすごい体験なのだ。 緑町は普段から静かなので深夜1時なんていうとほんとにひとっこひとりいない。  だれひとりいない。   ぼくもいない。   ぼくの意識はぐるりと北高まわりの細道を一周。 柵の向こうの校庭からビチビチビチビチと枯れ葉に勢いのある細い水があたるような音が聞こえ、その瞬間、ぼく意識の風は「女子高生が立ちションしてたらぐっとくる!」というアイディアでぶわっと人間やすはらしげるとして色と質量をもって立ち現れ、すぐに反省してまたすっと消えた。 自ら外側の目をつくってたらしょうがない。 自給自足の苦痛発生装置になったらおしまいだ。  緑町の誰もいない夜の道にひょいとおかれたなら、ひとつも光の屈折を認めない完全な緑町の誰もいない夜の道となれるようでなければ、何も語るべきではない。 ぼくとして自信をもって生きていくための最低限の条件である。 これが崩れたならもう生きている資格がない。 価値がない。   美しい透明度を取り戻し、白と黒の猫に風として出会い、別れ、光学迷彩のスイッチを切ったようにニュウっと人間の姿に戻り、家に帰る。 しかし感動はまだ持続し、不安定な存在のまま白痴を手に取り布団へ。 囲碁の死活の感動と、現実風景のナカでの己の死活の感動ですっかり興奮して目が冴えていたおかげで、そこからさらに充実した読書ができた。 ムイシュキン公爵。 見たこともないような魅力的な存在に出会えてしまった喜び。 ムイシュキン公爵。 ムイシュキン公爵。 白痴(ばか)であることを誰よりも賢い自負とし、子供といるときだけがなにより楽しく、しかし自分は子供とは違うという部分は一歩もひかない、正直で、丁寧な、考える、ムイシュキン公爵。 夢中。

2004-03-10-WED

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