No.574 にゃ

創意の欠如、ときくと、ぼくは生きてる価値もないような最悪の侮辱に聞こえるのだが、しかし現実的に、世の中的に、「実務的な人物」とされる人間にとってはこれこそが最上級の褒め言葉であり、大昔から今日に至るまで、敏腕な事務能力のある人物の第一の資格である、と、ドストが白痴の地の文でドストの言葉としてかいていた。 なるほど、99パーセントの人間をこの人はこんな風に扱うわけか。 すげー。 1パーセントの発明家、天才、変人あるいは白痴(ばか)がいいとかわるいとかということではなく、99パーセントを占める、つまりほとんど人類といってしまっていいものたちの価値として、「道理にかなった臆病」とか「礼儀にかなった創意の欠如」というのは、幸福をかたく約束された最高の「資格」なのだ。 1パーセントの天才とか馬鹿というのは、どう考えても不幸な辛い人生が待ち受けているわけだ。 これも残念だけどそりゃそうだとしかいいようがない。 平穏で立派な幸福というのは、創意の欠如なくしては手に入れることは不可能だ。 だから親は我が子が鋭い皮肉やだったりあまりにも心が美しかったりすると心配でしょうがない。 喜びもおおきければ不安もおおきい。   さてドストのいいっぷりでさらに「うほ!」とおもったのが、物語にでてくるエパンチン将軍というたいそう立派な人物の評価から発展していき、ついには「しかし、いくぶん頭が鈍いということは、ほとんどすべての実務家、といって悪ければ、少なくとも、すべてのまじめな蓄財家の欠くべからざる性質のようである。」といいきっちゃってるところである。  もうさ、ある程度言語が確定して社会のシステムが整ってしまってから今日まで、人間の性質による役割のバランスみたいなものって変わりようがないんだろうね。 同じ。 100年前のロシアも、1000年前のカルタゴも、3000年前のウピコポも、60000000年前の言末●も、今日も明日も、すべてのまじめな蓄財家はまず間違いなく、「頭がいくぶん鈍い」のだ。 そして精神を病んだ草間は痛々しい苦痛の人生とともにすばらしい水玉作品を作り続け、ぼくらはそこの輝きだけをとらえて喜び、鈍いところで幸せをつかみ、賢い部分で傷つき、昔よりもそうした分離、使い分けをしてる「つもり」だけが発達した「つもり」になっていることを客観的にみている「つもり」になってがちゃん。 ぶー。

文学だったり、絵だったり、音楽だったり、すばらしい作品は、1パーセントの美しさがむくわれる(むくわれなくても、そのむくわれない美しさが作品をより美しくすることで外側でむくわれる)ことこそがレゾンデートルだとぼくは。

2004-03-24-WED

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