No.580 トラの花(バラの花のイントネーション)

休憩時間、ドストの読みづらい文章(おもしろいのだが、有名な悪文のためしょっちゅう解釈になやまされる)のかたわら、ふとわきにあった立花隆の東大の講義(伝説の!)を本人がじっくり再編集した本を読み始めた。 以前買って、面白かったのだが生活がバタバタと急展開した時期で、途中まで読んでほっておいてしまった本。 数ヶ月前なんとなく読むのを再開したときに会社にもってきて脇においといたの。  いや、おもしろい!  おもしろすぎる!  何が面白いって、どんどんどんどんぼく自身の位置が、すなわち、あまりにも頭の悪い、怠惰な、無関心な、無気力な、底辺の、くそみたいな、狭い、ださい、無価値な人間であるというとてもみっともない位置が、あらためてあきらかにされてしまったのだ。  生きているのが心底恥ずかしくなった。 何をやってるんだろう、ぼくは。 21世紀人としての最低限の知恵も(19世紀以前のサイエンスすら完全にわかっていない!)身につけていないってのに、倫理も、芸術も、人生観もなにもあったもんじゃない。  あー、自分のすべての思想、発言がおこがましい。 そしてさらに底辺(目くそ耳くそ)をつかまえてあーでもないこーでもないと必要以上に憤激する始末。 このままだとぼくが忌み嫌っている不誠実もぼくが現時点で最大限の誠実だとおもっている心も、結局は大差ない下〜〜〜〜〜〜〜〜の方の、欲望に流されて、時代に流されて、すべての大きな流れに流され続けるとるに足らない同じ有象無象のひとつだ。  といったようなことを思い知らされるのがぼくは好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きでしょうがなく、これはなにも自分が雑魚だと思い知らされるのを喜ぶというような甘ったるい薄っぺらいMっ気でもなんでもなく、純粋にぼくがそうあるべき、そうあって欲しいと思っている世界の性質、水準の証明に他ならないからという素直な喜びであって、もうとにかくこういう碩学な人物、ジェネラリストというものに並々ならない憧れをもっているのだ。 スペシャリストにもスペシャリストにしか気づけない、すごく深いところの価値を手にするという偏りがもたらす美しさが確かにあってすばらしいことだと思うのだが、ものすごいジェネラリストとものすごいスペシャリストを比べたとき、ものすごいジェネラリストは根元の共通項がすべてに適用される法則によってすべてにおいてスペシャリストになってしまう可能性があるのに対して、ものすごいスペシャリストは奥底の共通項(万物に共通して流れるルール、価値)と、自分が特化したことに対する枝葉の部分は網羅できるが、しかしまったくノータッチの他の多くのものごとについては補いようなのない空白が残り、それは本人の精一杯の精神によってもどうすることも出来ないことで、結果として「本人も気付かない偏り」を生んでしまう。  いわゆる「哲学」がまさにそれ。 本来「哲学」というのはギリシャ語で「フィロソフィア」、「フィロ=愛」「ソフィア=智」で、つまりは哲学というのは元来すべてのものごとに対する「知的好奇心」のことだったわけだ。 しかし近世、主に内面を扱っていた哲学が次第に外側に広がっていき(様々な科学的発見によって)、哲学としてはおさまりがつかなくなり、サイエンスとして分離してしまったために、いわゆる「哲学」といった場合に指す学問が「『哲学』学」というものになってしまったという。 本来の意味でのフィロソフィアは、まさに近世のサイエンス(これってのは結局全宇宙学ってことだもの!)のことをいうわけで、真のフィロソファーなら「『哲学』学」という一スペシャリストの位置に甘んじていられるわけがなく、あれもこれも底の底まで知りたくて、あらゆる価値を味わいたくてウキウキそわそわしてしまうはずなのだ。  ぼくの性質も、さぽの性質も、本来、なんでもかんでもすっかり知りたい、わからないままにしとけない、あらゆる価値を正確につかみたい、そして自分をごまかして有象無象の一粒ではあまりにもぐやじい!という、かなりジェネラリスト傾向が強い方だと自覚している。 しかし、現実的に今現在の生活をスムーズにこなすためには、その異常な生活スタイルを強いられるような性癖(性質というよりはこのほがしっくりくるか)を大切にすることは不可能で、ところが 何をもって不可能といっているかといったら、結局は「劇的に人生を変化させるだけのパワーがない」ということにすべては収束するわけで、そういう弱気、妥協こそ、自分らがそこにおさまりたくないという有象無象の性質に他ならず、つまり自分だ。 すべてのイライラするような矛盾の原因は常に自分なんだ。  「白痴」でイポリートという結核で命が長くない18歳の青年がいっていたのだが、これから余命60年もあるやつが、貧乏でいることが腹が立ってしょうがないと。 あと2週間しかい生きれない自分にいわせれば、誰であろうと大金持ちになれるじゃないか、ふざけるなと。  大金持ちはあんまりときめかないけども、こんな恵まれた国で生活していて、どうにかしようと思ったらどうにでもなるというのに、どうしてどうにかしようとしないのだろうと考えさせられた。 これといって「どうしたい」ということがないから内的モチベが足りないということにつきるんだろうけど、「どうしたいか」をすぐに求めてしまうところがすでに実に無意味な型にはめてものごとを考えているわけで、「もっともっと学んでいたい」ということそのものがすごく強いモチベとして成り立っていて、個人がそういう考えでもって生活すること自体が、世界にとっての「知の拡大再生産」に直接的に貢献することになって、なんだ、しっかり大義名分があるじゃないか! こうやって大義名分にすがるあたりがまたステレオタイプなのだが、しかしこういうのにいちいち反発していくのもまったく意味のないニヒリストしか生まないんだよなという葛藤。

で、だからといってぼくらが急に劇的な行動を起こすというわけでもなく、結局は家に帰って「トラの花」が咲いていることの方にすっかり心奪われるのだ。 そう! 「トラの花」が今年も咲いた!!  球根の花って一年で終わりだと思っていたのに、今年も咲いたの!! 白いジャンヌダルク!! すげい!! まあどうせミミが憎しみをこめて今夜中にすべてをぐちゃぐちゃにしてしまうんだけど、それも含めてうれしい!!

2004-03-30-TUE

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