No.581 フォアグラ

感受性期というのがあるらしい。 脳の成長過程のある期間、ある情報をシャットアウトしてしまうと、本来その期間に身に付くべき能力が身に付かず、その後なにをどうしても絶対に身につけられないというもの。 有名なのは鳥のインプリンティング。 正確な時間は忘れたが、たしか生後5時間〜24時間いないに最初に見たものを(おもちゃでもタバコの吸い殻でも)親だと認識する能力。 16時間ぐらいがインプリンティングの感受性期のピーク。 24時間をすぎるともう何かを親だと思うチャンスは逃してしまったということ。 感受性期に正しく感受できなかった。  子猫に縦縞しか見えないようにしてしばらく過ごさせると、横縞を認識できなくなるという実験もある。 横縞を認識できないという感じがわかるようなわかんないような微妙なのでもちょとわかりやすい実験。  これまた子猫なんだけど、片目を手術用の糸で縫いつけて開かないようにしてある期間過ごさせる。 そすると、脳の第一次視覚野の細胞に対する反応が遮断され、反応性を維持する細胞がなくなっちゃって、目そのものは健康なのに、目が見えなくなってしまうのだそうだ。 目をいうハードは正常なのに、脳の側のソフトがいかれる。 そしてそれは二度と回復できない障害となる。  こういう障害の残る期間というのは当然個体差があったり状況によって揺れ幅があるが、そういう幅のある時間帯のことを「感受性期」というのだ。 さて人間の話。 今あげたようなプリミティブな機能についての感受性期はだいたい生後まもない早い時期にくるのだが、そうして大体のフレームが出来てからの、もっと高次のもの、つまり善悪を判断する倫理観だとか、美醜を見極める審美眼だとか、そういう人間性にかかわるような複雑なものについても感受性期があるんじゃないか。 異性の好みなんてのは大抵ちびっこの頃に決定してしまうらしいし、なにか衝撃的な体験をしてしまって自分の一生の目標がすっかり揺るぎないものになってしまうなんて話は捨てるほど聞くし、身近でよく感じる例でいえば、兄弟関係によって大体その人の性質が決まってくるなんてこともある。 これが血液型とか星座なんかよりはるかに顕著にタイプがグループわけできることは大人はみんな知っている。 一人っ子の性質、男兄弟の性質、女兄弟の性質、姉や妹がいる男の性質、兄や弟がいる女の性質、さらに一番上か真ん中か下か、片親、鍵っ子、核家族かおじいちゃんおばあちゃんがいたか、出かける家かこもる家か。 つまり、家庭という一番最初に一番長い時間、多くの感受性期が過ぎていったであろう時期に、生活・人間関係に「偏り」があればそれだけ脳のいろんな「反応性」が消えてなくなってしまう可能性があるのだ。 やたら責任感がない人や、冗談みたいに忘れっぽい人や、傷つきやすい人に無神経な人、創造性のない人、がんばりのきかない人、人前でしゃべれない人、こういうのは根本的などうしようもない能力の欠如によるところが多いと前から思っていたが、ほんとに科学的に証明されてるんだね。 トラウマなんてのは出来事が目立った場合のことをわざわざそういってるだけで、全ては細かなトラウマみたいなもんの集合で、様々な「障害」の集合、連続によって「人格」ってものが決まってくる。 これは基本的には一生変えることはできない。 ただ強い精神力とかテクニックとか工夫で、社会的な「見え方」はごまかすことができる、ということなんだとおもう。 忘れっぽい人はメモればいいとか、あがっちゃう人は竹中直人みたいにキャラを作って自分じゃなくなってしまえばいとか、傷つきやすい人は山奥で猫とふたりで自給自足するとか、根本的にもう「片目がみえない」ことがどうしようもないんだったら、どうやって残った片目でうまいこと生活しようかと一生懸命考えた方がいい。  よくよく思い返してみれば、ほんとに物心ついたときから「性根」ってのは全然変わっていない。 すくなくともぼくはそうだ。 いろんな「やりかた」を身につけて、我慢する「胆力」を鍛えて、自分自身すらだまされるような自分の人格みたいなものを作り上げてるにすぎない。 ほんとに「性根」は小学生からなにひとつ変わっていない。  みんなはどうなんだろうか?  まるっきり根っこから人間が変わった人なんているんだろうか?  変わった、という人はいっぱいいるかもしれないけど、ぼくはそれはその人の努力でとても上手に補えているだけ、もしくは全然自分を分かっていないかのどっちかだと思ってしまう。 「根っこから変わった」のと「努力でとても上手に補えている」事に違いはあるのかとつっこまれそうだが、これはだいぶ違うとおもう。 両目がほんとに見えてる猫と、片目でうまいことなにも支障なく生活できてる猫ってのは、やっぱり別物である。  ここのところはちゃんと間違いなく正確に認識していたほうが自分にとっても周りにとってもとっても有意義なんじゃないかなと強く思うので、ここはこだわりたいの。  だって、ほんとに自分以外の、長いことつきあいのある友達とかみても、やっぱり人間はかわんないんだよ。 つまんないやつは幼稚園のときからほんっとにつまんないし、小学校のときセンスのよかった人はおっさんになってもすごくセンスがいいし。 なにがいいたいんだ? つまりだからおっきくなった後に「あれ?おれ、つまんね??」と不安になったら、もう基礎的なところはつまんなくなっちゃったのはしょうがないんだから、もっと高次の、現時点の年齢でも受け入れOKな複雑な、スパンの長い感受性期をもつ要素をがんばってのばしてのばして、ほんで「おもしろいみたいな人格」をつくっていこうと。 だいたいその時期に興味がわいてくることが感受性期のピークってことらしいから。 おっさんになると誰しも歴史に興味がわいてくるとかあるじゃない?  いままで漠然と「そだった環境で」とか「生まれたときから 」とかいってごまかしてきてたところが「感受性期」という明確な答えを知ったおかげでなんとかしようがあるなと。 で、すべてにいえるのが、とにかく偏った環境はなるべく選ぶべきではないってこと。 男だけの生活、とか、学校勉強だけの日々、とか、ある地域だけにずっといる、とか、ひとつの宗教的考えに支配される、とか、偏ったジャンルにはまる、とか、そういうのはうんと全体像が見えてきた大人になってからでないと、よくてとってもつまんないスペシャリストどまりじゃないかしら、と。  でもさ、人間的につまんなくても、そのスペシャリストにしかひけないピアノ、とか、打てないホームラン、とか、そういうのが世界の中でひときわまぶしくきらめいちゃうもんだから、なんともいえないんだよね。  芸術家、小説家、なんてのはつまり極端な障害者みたいなもんだし。 よくわからない。  フォアグラは美味しいけど…みたいな話だよね。

2004-03-31-WED

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