No.611 凪いだガスの中、希望の澱に湧く虫たちのような声色には耳を貸すものか!

妻、理恵は紋切り型で通り一遍でわかったつもりになるような雑な解釈が大嫌いな人で、その、容易にその場に同調しない、なかば意地っ張りでなかば冷ややかなところにひかれた保坂(厳密には高志だがまあ保坂で)のようにぼくも大好きな人種なのだが、その理恵とゆかりのいつもの言い合いのなかで保坂が、「わからないことというのは知っていることに比例して増えるもんなんだよ。 だから知っていることが少ない段階ではわからないことも少ない。 逆説的な言い方になるけど、わかっていると思っているうちは、じつはろくに知っていないということで、これは詭弁でも何でもない。」ということをいっていて、とても気持ちがよかった。 この感覚をしっかりと認めて欲しいひとがくさるほどいる。 馬鹿ほどすぐにものごとに「飽きる」。 つまりほとんど「知らない」段階でつまづくもんだから、そのつまづきにも気付かず、「もう見切った」とでも感じるんだろう。 知れば知るほどわからなくなっていって、幻想が消えて実態がさわれるとおもいきや逆で期待していたものは拡散して認識できるような形態でないことを思い知り、それゆえ踏み込んだ人間ほどその態度は謙虚になるわけで、そういう気持ちをもってるかもってないかというのは人間を大きくふたつにわけ、それは顔つきにしっかり刻まれちゃうわけで、魅力のない顔の人とは関わり合いになりたくないということになり、あーわかりやすいバロメータ。  

テレビで例の人質のふたりが釈明インタビューをうけていた。 釈明もくそもあるか! 自己責任なんて言葉をなんだか都合よく使いやがってこともあろうにバッシングムードになってる世論がこっちからみてて気持ち悪くてしょうがなかったが、彼らもそれがほんっとにショックだったようだ。 あたりまえだ。 くそ単純な自己肯定マシンこそ死ね。 なにもできないんだったらせめてあーいう人らをだまって拝んでろ! 

2004-04-30-FRI

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