No.619 植木市にいってきた

ふたりそろって休みなのだが、微妙に遅くおきてしまったせいで、午前中が有意義に使えず悔やまれた。 なんとかそれでもお昼までに風呂にはいって洗濯して昼食まで間に合った。 さぽの家からもらった葉玉ねぎをコンロであぶって焦げ目をつけ、そこに無印の塩シリーズから旨味の強いちょっと赤い色のユタ州レッドモンド産の塩をふり、さらにオリーブオイルをとろとろかけ、黒こしょうをかるく挽いてたべたところ、う!ま!い! やばいです! 尋常じゃない美味しさです! これだけでごはんが何杯でもいけます。 野菜を炙って塩とオリーブオイル! しばらく我が家で大流行です。   先日さぽの実家からもらったプチトマトの苗を、もっとおおきな鉢に移し変えたいので、素朴で庭に合いそうな素焼きの鉢をもとめてでかける。 最初歩いて七日町までいき、雑貨屋2軒ほどまわるが、どれもちょっと小さいので断念。 マロンロンで1000円のほうきを買って帰る。 帰り道、ばったり井沢さんに会う。 井沢さんはブンブン堂で一緒だったとても気持のいい人で、その昔美術の先生をしていた。 なんでも最近、弟とそのバンド仲間が井沢宅に居候していて急に大所帯になってしまったのだそうだ。 うーん、カンバセーションピース。

こうなったらジョイだ!と勇んで車で出かけるが、やはりジョイ。 美醜など計算外の商品が立ち並ぶ。 知ってはいたつもりだがやはり落ちる。 竹の棒(一本28円)2本買って次のジョイへいくが、さっきのとこよりも品揃えがわるい。 もう鉢ってのはプラスチックが主流なのね。 がっかり。 素焼きのもあるにはあるんだけど、変なとこに上薬ぬってあったり形が大仰だったり余計なことしてたりで、実用的な道具だとはいえ、どうしても家におきたくないものばかり。 普通でいいのに、普通で。  今回はあきらめて、干し野菜用のでっかい笊だけ買って帰る。 もともとごちゃごちゃいろんなものがおいてある店であーでもないこーでもないというショッピングが大の苦手なぼくは、もう精神的に疲れてしまって先に車に帰ってまつことに。 暇つぶしに東北の地図をみてたら、山形、米沢、福島の位置関係をあらためて違う角度からしることができて目から鱗。  お次はヤマヤでオリーブオイル購入。 こういう目的のものがあることがわかっている買い物はさくっと終わって気持がいい。 で、オーバンで水をもらって帰る。  家にかえってすぐに、ひとつ用事を忘れてたことを思い出し、ひとりで出かける。 忘れたのは釣りに興味をもったら是非やってみたいと前から思ってた、「糸井重里のバス釣り宸P決定版」という4年前の64ソフトである。 単なる運ゲ−の多い釣りゲ−の中、これだけはほんとにやってる人がやっても納得っつって、神釣りゲ−と名高い名作中の名作。 糸井こだわりのシリーズで、本人いわく「やればやるほど、ここまで作りこんでいたかと呆れるほどの、究極のシミュレーター」だそうで、ほんとにいまだに世の中的にも別格扱いされている。 まあぼくがやりたいフライとこのバスつりはまったく別物なんだけど、それでも気持として少しでも釣り全般の楽しさを知りたいというもんで、しかもこれ、予想通り700円という破格で購入できたから気付いたときにちょろちょろ楽しめればそれでいいの。 いや、そんなやり方は名作に対して失礼か。  家に帰り、さぽとふたりで植木市に出かける。 今日は初日。 護国神社が近いので、お散歩がてらにこんなでかい祭や初詣にいけるのがとてもうれしい。 この家の異常なまでの立地の良さには常にうならされる。  川も山も図書館も街も映画館も飲み屋街も、すべて歩いていける上、バイパスにもすぐでれる。 すごい。  お好み焼きとおやきを買って、いつものお化け屋敷横の赤白座敷きテントへ行き、鮎とビールを注文して一杯やる。 楽しい。 しかもすごく腹がへっていたせいか、それとも選んだのが当たりだったのか、どれもうまい! 楽しい! 去年よりバリエーション豊富になったお化け屋敷の呼び込みのおばちゃんの声が緑町中にこだまする。 祭ってのは急にその空間が妖怪道中みたいな摩訶不思議な空気に満たされて面白い。 縁日なんてそうしょっちゅうあるもんじゃないから、おそらく子供をつれたお父さんたちも、テキ屋に対する感じ方というのは子供のときとあまり変わってなくて、あの、楽しさのなかにちょっとした不安を感じ、それでもお祭りなんだからすすんでだまされてやるぜという感じで、なんとも微妙な気持でみんなお金を落としていく。 楽しいんだか苦痛なんだかわからない気持で、自分以外はみんな楽しそうだというような、変に取り残された影をぞれぞれがもっている、そういう影もひっくるめた、絶妙な魅力ある空間力。 ちょっとチャンネルを変えると急激におそろしく見えるというのが、なんとも日本的で美しいじゃない。  邪心なく鮎を一生懸命焼いているちっちゃいじいちゃんの動きがうんとかわいくて、ふたりでうっとり眺めながら、でもあーいうじいちゃんの小指がなかったりするんだろね、なんていって目をこらすと、本当に軍手の小指がぷらぷらうすっぺらく捻れてぶらさがっていた驚いた。 やっぱりそういうもんなのかー。 しかもなんだかじっとみてたら両手の小指がないみたいで、軍手を外したらなんと薬指までないことがわかり、じいちゃん、あんたどれだけ落とし前を…   こういうのを見ると、そこらにいるちっちゃくかわいくうんと素敵な心に落ち着いてるようにみえるじいちゃんばあちゃんというのが、リアルに昔は若くて欲望の強い若者だったんだなあとあらためて考えてしまい、なんだかドキドキしてしまう。

家に帰り、寝ようとおもえば寝れるが、楽しんだらとことん楽しめるなという時間帯だったので、迷わず楽しむ方を選び、カンバセーションピースをもってお風呂場へ。 どうも最近細読みが続いていたので、ひさびさにじっくり長時間読みたい。 長時間本を読むのに最高なのが、やはり半身浴。 狙い通り、3時間ぐらいがっつり集中して読めて、いつにもまして興奮した。 44の小説家たかしが19の学生ゆかりに「文学や絵や音楽には個人の主観を超えた、いいとダメとを測る厳然たる尺度がある」ことを、ごまかさずに丁寧に説明しようとしている場面がかなりスリリングで、自分の目で見たり耳で聞いたりすることを元にして感じたり考えたりするのが、人間としての前提となる条件であることは間違いないけれど、それを束ねる「私」というものは「だからそれしかない」とか「だからそれだけが信用できる」というようなものではなくて、自分が存在していない場所を理解しようとするための媒介のようなものなんだということと同じなんだと伝えようとしても、どうしてもゆかりにはそのふたつが同じこととは感じれなくて、一面的な論理の使い方を覚えた十代の精神というのは結局言葉だけでは変えられないということなんだろうなという思いにいたるのだが、このたかし夫妻と姪のゆかりとのこうしたやり取りの場面がぼくはこの小説のなかで特に好きな場面で、中でもここはたかしが果たしてどうやってゆかりにこの感覚を伝えるのだろうかと、お風呂で全身汗まみれなのにさらに手に汗にぎって読んだ。 もうこの本はふやけてぶわぶわでとてもいい感じだ。  お風呂かあがるとさぽはすでに布団に寝ていたが、ぼくはもう心も体もあほみたいに気持よくなってしまっていて、勢いで夜中までドラクエをやって結局クリアしてしまった。 これでフライに専念できる!と、いつも最後は義務的になる娯楽って…

2004-05-08-SAT

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