No.627 せみ

すげーものみちゃった。 新婚旅行でみた、クリムトの正方形の3連の風景画以来の、すげーのみちゃった。  ほんとに凄まじい作品て、急激にこっちの感情に入ってきて、作り手の、その時の心境にむりやり見ているぼくを引っ張っていく力がある。 ということを、ぼくは、3年前、ウィーンでみたクリムトの絵で初めて知った。 頭で考えてすげーな、かっけーな、化けもんだ、素敵すぎる、とおもったのは、いかにもクリムトらしい例のパターンと金を使ったあのやり口の何点かで、それはもちろん強烈なすばらしさだった、感激した。 ぽかーんと見入った。 しかし、まったくノーマークだったその3点の風景画を見た瞬間、「ぶわ!」っと、とんでもない感傷的な気持ちに襲われて、これは明らかに自分の感情でなくクリムト本人のこの絵に挑んだ時の感情そのものに他ならないということが、直感的に「間違いない」という感じ方でわかった。 うんと澄んだ、うんと悲しい、ほんとうの意味の愛情であふれる、つまりぼくの大好きな質感の「世界との関わり方」をこのときのクリムトはできていたという事実が一瞬で理解できて、あり得ないはずなのに懐かしさのような感じでその絵に魅了された。 絵というかその乗り移ってきた感情にすっかりまいった。 いわゆるサイコメトラーというやつになってしまったんだとおもう。 ぼくにサイコメトリック能力があるわけでなく、そのものに込められた感情があまりに強烈に残っていたのが、似た波形を知っている、持っている、好む傾向のぼくの思考にふれて一気に干渉してきて、こっちまですっかりその波形になっちゃったような感じだと思う。 その絵のいきさつなどなんにも知らないのに、すごい強い感情がこみ上げてくるなんてことは、生まれて初めてだった。 それまではいつも頭で考えたような感動のしかたで、それはそれで大好きだったんだけど、こんなわけもなく涙が出てくるような不思議な経験は初めてだった。  ちなみにさぽのお母さんのしのびー教授は、美術館ですごいの見てるともう終始号泣で、もうだめだ、お母さん帰る、という調子なのだそうだ。 わかる。   で、そのクリムト以来、映画や小説、音楽、景色、匂いなんかで大感激したことこそあったけども、ぽんとおいてある物体ひとつに対してそんなことになることはなかった。 もちろんこっちのコンディションだってあるわけだから、いいものに会わなかったというわけでもないんだろうけど。 ほんで今日行ったのは高村光太郎展で、何にそんなことになっちゃったのかといったら、小さな蝉の木彫だ。  見た瞬間気持ちが「ぶるん」と震えたのが分かって、「うわ、やばい、これは、やばいやつだ、ぜったいくるやつだ」とドキドキしはじめた。 あまりちゃんと見ないようにして、まずはその脇にある「蝉を彫る」という詩をみる。  これがあんまりにもいい詩なので、ほんとはここに引用して、ぜひ見て欲しいんだけど、いま検索しても全文がのっているのは見つけられず、切れ切れにしか覚えておらず、残念だけどのせれない。 く。   それを読んだだけでもう感情はたかぶってしまって、それでもギリギリのところでふんばって彫刻を見る。  すごい。  リアルとかそういうことでなく、あまりにもすごいの。 ほぼ原寸の蝉の木彫に、ちょっとだけ彩色してあるものが2点。 よりリアルな方は下に鏡がしいてあって、足や腹なんかも見える。 ぼくはもうひとつの、あまり具体的な彩色がされていない方にものすごくひきつけられ、ほんとにその場を動けなくなってしまった。 この蝉の魅力はあまりに強烈で、ここでとまってしまう人が多かった。 どっかのおっちゃんも「…これはすごいな…」と絶句。  精緻であるとかそういうことでなく、そのある姿があんまりにも繊細で、きれいで、悲しくて、この世のものとは思えない美しさなのだ。  もう一度詩をみる。  さっきは気付かなかったが、詩の出だしに「冬の日」とある。 これをみたとたん、そのあとに続く詩の内容と、そしてこのとんでもない彫刻作品とが完全に一体になって、例のごとく一気にぼくの感情の中にその日の光太郎の気持ちがはいってきてしまった。 夏の日に拾った蝉の死骸をとてもいいとおもって部屋の窓際にとっておいて、カラカラになったそれを、冬のある日ふと手にとって彫ってみたくなったのか。 その小さなミイラをおよそ人のもつ卑しさからは遠いところにあるとうたい、その美しい昆虫の羽を霊的な存在として認識している。  単純な逃避ではなく、その小さい存在に限りない真実と美しさを感じ取った心、それをきっかけとしてか、それがすべてか、世界の×××の中心にしっかりおりたってしまったその感情が、そっくりそのまま入ってきてしまった。  一気にかなしくてあったかくてさみしくてうれしいような強烈な感傷が干渉してきて、ぶあーっと涙が出てきてしまった。 いま書いたようなことはこれを書くにあたって客観的に分析したら大体こんな感じだったということで、その時はもう理由なしですさまじい感激に襲われたという感じ。  びっくりした。  詩と作品が合わさるということはとんでもない効果をもつ。 作品だけでは、照準がさだめきれないものも、詩があわさることでほんとうに「そう」なのかどうかの確信がもてるばかりか、その外側までも、その時の空気の調子までも、比べものにならないほど鮮やかに再現してくれる。  いや、ほんとにびっくりした。  ぜひ近くで高村光太郎展があったら見に行ってください。 衝撃です。 父光雲との芸術性の比較も面白いし、智恵子の紙絵もすざまじい。  そう、智恵子が光太郎の作った木彫の小さな作品を特に好んで懐にいれて持ち歩いたという記述が年表にあって、ぼくとさぽは絶対にこの蝉に違いないと確信した。 これはね、持ち歩きたいよ。 光太郎の彫刻はどれもすっっっごいレベルだったけど、ぼくはこの小さい木彫の一連の作品が段違いで良かった。  バガボンドで武蔵が仏像彫っているシーンを見て、ああ、小さい木彫っていいなぁ、下手でもそれなりになにかぐっとくるものが彫れそうだなと、実は前からちょっとだけ興味があり、いつか何か彫ってみたいとおもっていたんだけど、こんな素敵な、こんなふさわしいモチーフが身近にあったんだなと。

2004-05-16-SUN

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