No.629 番号順に点を線でつなぐと絵ができた、みたいな

警察官だといって働いていて、実際はどうだかしらないけど例えばATMからお給料をもらっていたとする。 認識する意味の上ではそのお金は彼のここ一ヶ月の労働に対する報酬が国から支払われ、回り回ってその価値がATMという機械からでてきて、その紙切れはあらゆる価値に変換できるということになるのだが、彼が警察官であるという地球人の意味づけを離れ、彼の1ヶ月の働きを単なる彼の「運動」ととらえ、彼の口座にお金が振り込まれる経緯もすべてだれかとだれかの「運動」や「電流の動き」ととらえ、でてきた紙もただの物質でしかなく、その後の交換行為も紙の移動に特に注意しない見方ができるなと考えた。 あの人は×××の職業で〜とか、ぼくは×××の立場で〜、なんてのは、ちょっと視点を変えると実は「とんだフィクション」なんじゃないかとおもうことがある。 ギターを弾くのに多くの理論や決まり事を知っていると、知らない人からみたら「とんでもないプレー」がいとも簡単にできてしまうという現象は、人が現実世界の数学的ルールを見いだし、法則性を体系化してとらえ、自分にあったようにまとめ、利用して、肉体的に慣れて、電気信号的に慣れて、それで今度はもっとうまく利用して、それによってまた深いところの法則性を発見して、まとめて、というのを繰り返すというあらゆることにいえる「人間的な学習」によっておこるものだが、その土台となる数学的な真実の法則が、はたして「絶対的にそういうもの」かどうかというのは怪しい、というかどうともいえない「変なこと」だとおもった。 それと同じような意味で、太陽や月によって決まった暦の上で規則正しく生活する「あたりまえ」な流れにのっかている事への妙な不思議さを感じた。 ぼくが人間であってそのルールにのっかって生きている。 多くの人が同じ尺度の上に快楽や憎悪をのせて共有している生物的常識は、この種としていきているからには宿命的にその中でしか生きられないものだという当然の不自由だと(いや不自由とも感じていない)認識できていて、そこに靄はかかっていない。 人間であるがゆえに人間以外の価値観で客観視するなんてことは出来ないし、そこには何も意味がない。←といって切り上げてしまうあたりが、あの人は×××の職業で〜とか、ぼくは×××の立場で〜、といった打ち切り乗っかり姿勢で、そこに(どうしてもそうなってしまうところに)おかしさ、はがゆさ、若干の不愉快を感じる。 今ある音楽理論は地球上の空気と地球人の作りに対して、もうブレようのない収束しきった完成型だとしても、しかし法則というある種「霊的」「オカルト的」「フィクション的」ともいえないこともないものをわざと忘れて、流れるメロディーを物質的にも意味的にもミクロに入りこんだスケールで、もう得体の知れない快楽の粒の圧倒として受け入れる姿勢だってとれるわけで、そうした時に感じる魔法のような「演奏」という行為への憧れというのが、案外素直な世界の感じ方だったりしないかしら?と。  まあ音楽を例にだしてしまったらその「感じ方」にまで、脈々と受け継ぐルールにもとづいたDNAの癖の反映を無視できないからちょっと違うんだけど、なにがいいたいんだろう。   雑多な現実の影にかくれた世の中のシンプルなルールをぼくはどんどん見つけたいし、いろんなすばらしいルールの実在を確信するし、どんどん利用していきたいし、美の神髄がそこにあるとおもっている(というか美というものがイコールそのことかもしれないともおもう)のだけど、それを尊重し、ビンビン感じながらも平行して、それを疑う姿勢、というか意味に収束していく世界を感じる一方で、無意味の拡散でしかない世界像というのも感じているべきなんじゃないかと、ふと思って、長ったらしくわかりづらくなったこの文章は、つまりそれをいいたかった。  世界と自分の関係に、ただの砂嵐に独自のルールで風景を見いだしているようなイメージを描いていると、余計な偏見や思いこみをとっぱらえて実に愉快じゃないかと。 いったんここまで客観視したつもりになると、おもいっきり偏見視しなくちゃいけなかったり、ひとつのルールの世界にどっぷりつかる必要があるときに、格段にうまくそれができるということも起きてくるとおもうの。 「のっかっていない」ことで実にうまく、じつにディープに「のっかれることもできる」。

2004-05-18-TUE

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