No.633 はやくねないと

明日は4時起きで菖蒲川ダム上流に遊びにいくので、今日はうんとはやくねなくちゃいけないのだけど、髪をきってもらってタックルの準備をしてたら遅くなって、しかも気持が盛り上がってしまって、結局12時過ぎまで眠れなかった。 釣り道具の準備ってのは、それだけですごく幸せだ。  そういえば新潟の魚沼にある無印キャンプ場ではフライ釣りもできるらしく、前からさぽとふたりで行きたい行きたいといっていたもんだからそこにとんでもない勢いがついてしまった。 エチゴビールにもいってみたいし、やまの家にも遊びにいってみたいし、今年は新潟ツアーかな?   こないだはじめた糸井さんのバス釣りの方も、ついに40センチオーバーを釣ることができて、面白くなってきた。 しかし未だにルアーの種類とその使い方がちっとも頭の中で整理されておらず、しかもそこに季節や時間や湖の場所(標高)やなんだが複雑にからんでくるもんだから、ほんとにいつまでたってもなにも覚えられず、自分はほんとうにバカなんじゃないかと落ち込んできてもいる。 楽しむために乗り越えなきゃいけない壁が高すぎる。 一気に覚えなきゃとおもうからいけないんだろうけど、しかし全部わかってないと、本来の楽しみ方であるバスの居場所を推理して適切なタックルをつかってということが不可能だもんだから、やっぱり楽しむには最初に体に叩き込む必要があるんだよな。 うーん。  リアルにしてもバーチャルにしても楽しむためにうんと苦しい思いをしてアホかとおもいかけたけど、しかしこれって本来の姿なんだなということをおもいだした。 手軽に楽しめるものは、やはり手軽な楽しさなんだよね。 楽しいとか幸せてのは、ぽんとそこに「楽しさ」とか「幸せさ」とかいう「絶対量」をもったなにかがあるわけでなくて、あくまでこっちの問題によって「相対的に」感じる価値なんだから、そら前後の揺り幅がでかいほうが単純に際立つのが当然。 大変なおもいをしてこそてにいれたという自己満足だって多分に影響するし。 「いいものはいい」という考え方は実は一般的ではなくて(というか誤解のおおそうな表現で)、「いいもの」が勝手に「いい」というより、「いい」と見い出す気持が「いい」のだとおもう。 子供の強烈な絵でたまにものすごく「いい」のがあるけど、あれはやはりその良さを読み取る側に「いい」があって、絵そのものは鏡なんだとおもう。 感じない人にはただの汚いへたくそな絵だし、極めてる人にはやはり根本的にピカソとは質が違う稚拙なものに見えるし。  「楽しい」とか「いいもの」とかいう対象そのものではなく、それを感じるこちらにその価値をきめるイニシアティブがあるということを、ここ数年強く感じる。 つまり楽しいのもつまんないのも結局自分次第なんだよな、と。 退屈だ、世の中つまんねー、あーヒマだ、ろくなことがないといってる人に、それはつまりおまえ自身のことなんだぞと、伝言ゲームで教えてやりたい。 外国人をはさんで伝えてやりたい。

2004-05-22-SAT

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