No.635 一回大爆発して絶滅しかないんじゃないか?

集団組織は常に自分たちひとりひとりが、そしてその集団がよりよい位置にのぼるべく同じ希望もって試行錯誤して働いているはずだ。 特殊な異分子も大きな流れではそのベクトルからはどうしても逃れられないはずだ。 3人集まればなんとやらよろしく、各セクションに専門をつけ、潤滑油的なグループが存在し、ブレーンが存在し、トリックスター、セックスシンボルが末端まで扇動するようなでかい集団になることで、個人ではどんなに能力が高くても実現不可能なことまでやれるようになる。 組織をくむ意味はそこにある。  ところが、組織がでかくなることでおきてくる弊害というのもものすごく多くて、小回りのきく少数精鋭ならいとも簡単にできるようなことが、集団組織であるが為に実現不可能になってしまうという馬鹿らしいことがいたるところで実際におこっている。 不可能になってしまうことにはこれといって別角度からの新たな価値などなにもなく、ただ、ほんとにただ単に太りすぎて尻が拭けなくなっちゃった的な純害である。 「国」がまさにそれだ。 細かく分かれれば争うし、世界統一国家のようなものができたらできたで、あまりに太りすぎた体はいずれじぶんの右足が腐れ落ちたことにも気付かず、死んでいく。 さらさらぱらぱらと、集団に属することを無視してひとりひとり、一個一個の価値を純粋にみていくと明らかなことが、集団になるととたんにめちゃくちゃで秩序のない馬鹿げた架空の尺度ができあがり、それに照らされて間違った判断を下され、悪法も法なりとわかってあえて必要だと判断して間違いを利用しているうちはいいが、そのうち必ず裾野のマジョリティは誤解をはじめ、美しくも恐ろしくもない、ただみっともないだけのカオスが当たり前になっていって、混沌の中の傾向としてはとんでもなく程度の低い価値基準が標準とみなされるようになり、つまりなんの魅力もない馬鹿がかわいいかわいいといわれてしまうアイドル業界のようなものがなりたつことになる。 かわいいどころかそのほとんどが、最低レベルの×××のあつまりであることに、もはやほとんどのひとが気付けない。 わかりやすい集団の弊害だ。 社会的記号に惑わされることなく、「こころのまなぐ」でつぶつぶをいっこいっこ丁寧に誠実にみていったなら、極端な話世の中の価値は一晩で逆転するんじゃないだろうか。  これからうつくしく生き延びる集団は、間違いなく支配できるレベル(じぶんでどうにかできるレベル)では零細化を選ぶことになるはずだ、と思う。 人間とか地球とかいう限定を越えて、「集団の宿命」というものは宇宙に厳然と横たわっているもののように感じる。  結局、ゆるぎないシームレスの現実は、「一個」という単位まで! といったところで、どこで区切るかという問題が発生して、この話じたいが無意味なものになっちゃうんだよな。 自分だってなんらかの集団の集まりで構成されている以上、「一個」とはどこで何を基準に区切るべきかがあやふやになっちゃう。 根本的なところがだれもわからない。 精神の数で区切る、というような感じのことが頭をよぎるが、人間一人、動物一匹にひとつの精神がそれぞれついていて、その下の階層には精神がないなんて誰が証明できるか。  細胞一個一個にだってぼくらが精神と呼ぶようなものが実は宿るかも知れないし、逆にぼくらのレベルで精神が完結してないかも知れない(日本でようやく一人格みたいな)。  いやちがうんだよ、こんなあっちゃこっちゃにいきたいんじゃなかったんだ。 どうも書いてるうちに自分の書こうとしたことをどんどん否定せざるをえなくなってこういう枝だけ広げたみたいな格好になっちゃう。  そもそもなにに苛ついていたかというと、拉致問題の特集を見て、政府のあまりにも馬鹿馬鹿しい対応、というか、自分も含めた「国家」というあんまりにもでっかい肥えた体の、「まわらなさ・ふじゆうさ」に対する絶望感を書きたかったんだ。 こういうのって、ちょっとずつ良くなっていつかすべてが浄化されるなんてことでは決してないことが分かっちゃうから、もうほんとに絶望するしかないじゃない。 はあ。

2004-05-24-MON

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