No.650 タッシ

ほんとは心もたりないくらいだけど、心がいくつもあったら「ぼく」として全て楽しめないから話がおかしくなってしまうばい、なんて考えながらメルクリーガーの素晴らしいキャスティングの本を読みました。 メルはでっかい川でキャスティングしてると、あんまり幸せで、いつのまにかでかい声で歌ってて、まわりからみたら基地外だとおもわれるだろうというぐらいやばくなっちゃって、ついには「魚たちよ、この私の幸せな釣りをじゃましないでくれ」なんて本気でおもっちゃうような人で、完全に信用できるすてきな人だ。 行間を楽しむでもないけれど、フライてのは「釣れない」ことこそ面白いみたいなところがあるようなのだ。 もちろん釣りたくてやっているんだけど、しかし面白さは釣れないときにこそある。 だからみんなあえてニンフでなくドライを流すのを好む。 いったら餌づりなら同じ川、同じシチュエーションで10倍つれるのに。 過程こそよろこびであると強く感じるぼくとしてはなんとすばらしい趣味にであってしまったんだろうと日々感激。 しかもしかも楽しむためには当然のように山だの川だのとあまりにもお近づきになる必要がでてくるんだからこんな幸せなことはない。 ぼくはどう考えても都会の情報の刺激の粒々をすごいスピードで、すごい即時性で味わい、考え、楽しむ喜びよりも、こっち(自然の方に歩み寄っていく生活)にとんでもない深みとか可能性とか喜びを感じるようにできている人間みたいだ。 もちろん前者の刺激もとんでもなくおもしろくてすごい可能性があってすてきですてきですてきすぎるけれど、知ってるけど、切るわけではないけど、つーか半身つっこんでるけど、しかしそれでもどうしても、人為的でない自然のなにか圧倒的なルールとかパワーとか美(こちらが感じるというだけでない、厳然とそこに「ある」美)とかの刺激には、とてもとてもとてもかなわないと感じる。 芸術も結局は自然に近づきたいだけなんじゃないか(表面的な模倣とか切り取りてんじゃなく)と、ダヴィンチだっけかがいってたことをそのままそう思う。 そのままそう思うのです。 ず〜ざ〜ま〜じ〜い〜と感激する音楽、おはなし、絵、しくみ、などは全部、作り手の意図を超えて自然に還元しちゃったようなもの、そういうレベルに到達したものなんだと。 あたくしもそういう域に粋に一気にタッシたいもんだなと。

2004-06-08-TUE

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