No.652 目標

今夜はちゃんす先生が里帰り農業実習のため、ぼくは夜一人。 自給自足への憧れというか、システムにわけもわからずのっかってることの危うさ、気持ち悪さを年々リアルに感じるようになってきた我々夫妻は、ちょっとずつでも、人の本来あるべきシンプルな生活のための技術や精神を学んでいきたいという欲求がますます高まってきていて、「自分らで出来ることはなるたけ自分らでやれる人間になろう」というとても簡潔な人生の目標が見えてきた。 長いこと、「いったい自分はどうなりたいんだ?」という、エゴや純粋な感動や功名心や誠実な意志やなまけ心や反省や物欲や正義感やコンプレックスや使命感やらがぐちゃぐちゃと絡まり合った答えのでない無限ループにはまって苦しんで楽しんで来たわけだが、それが最近スルスルスルスルと綺麗にほどけてきて、「自分らで出来ることはなるたけ自分らでやれる人間になろう」というほんとになんでもないようなシンプルな目標に収束してきた。  ほんでちゃんすは、せっかく家が農業をやっていて、しかも夢のように信頼できる公一大魔神教授隊長という希有な父親までもっていて、こんな恵まれた環境で学ばない手はないじゃないかよということについに気づき、時間があるときはなるべく家に帰って農業を手伝おうということになった。 すばらしいことだ。   ほんとうに、ちょっとずつでも、自らの頭と体で直接世界と関わって生きていく術を身につけていきたい。 構造が複雑になればなるほど、インターフェースはフールプルーフ化が図られ、考えなきゃなんにも考えないで生きていける世の中というのがどんどん加速していく。 生きるために「考える」基準がどんどん下がっていき、作り、引っ張る側と、乗っかり、利用する側のレベル差がますます顕著になっていく。 あるものでひっぱる者も、あるものでは何も考えずシステムに乗っかりボタンを押すだけになる。 社会のシステムとしてはこれは正しく合理的で進歩の為には欠かせない「偏り」を生み出す美しい姿なのだろうけれど、一個一個のそもそものあるべき姿とはかけ離れて行っているように感じる。  なにか、美しくない歪みによる気持ち悪さをいっつも感じる。 知らずにのっかっているしくみをできるだけ客観視し、理解し、考え、降りれる車はなるたけ降りて、ごまかしのないテンポで楽しく歩いていきたい。 たったいま比喩した車を降りて歩くということ、実際にぼくは今年比喩でないそれをちょっとずづ実行しているけれど、ほんとうに、同じ道なのに、まるで違う世界を感じることができる。 丁寧に、本来の人間のスピードで街を見ることで、本来人間が街から感じる情報をしっかりと見逃すことなく取ることができるのだ。 こんなことも車にのりつけるとすっかり忘れてしまう。 こういうことが生活の中に他にもいっぱいあるんだ。

2004-06-10-THU

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