No.653 カラマーゾフ

今夜もサポルスキー公爵夫人が不在だので、ひさびさにモストエフスキー決行。 このあいだ買ってきたカラマーゾフの兄弟上巻、どうも釣りとのバランスの関係でなかなか集中して読むことができず、もったいない細読みをくり返していて、どこかで太読みして流れにのりたいなと考えていたからこのタイミングでのモストエフスキーはとても丁度良かった。 仕事を終え、イッセー尾形話でちょっと趣味残業をし、9時ごろにモスへ。 この場合重要なのは主食ではなくジャスミン茶。 そしてポテト。 これで、粘る。  ほんとに久しぶりに2時間集中して読めた。 2時間集中して読むと、やっぱり面白い。 ドスト先生はほんとにおもしろい。 この人宗教学者としての性格が色濃いもんだから当然作品にも毎度のことながらキリスト教の内側外側がすごくリアルに、深く描かれている。 長老制の修道院が舞台になっている第一幕は、とんでもなく高尚でロシア中に名を轟かせるゾシマ長老のもとにやってくる様々な悩みをもつ人、罪深い人が描かれ、具体的な懺悔に対するゾシマ長老の「返し」がまず相当興味深く、エキサイティングなのだ。 人類愛、世界愛といった、抽象的で想像上の愛が熱烈になればなるほど、実際の個々に対する愛情が薄れ、他人の個性が自分にとって強烈な圧力となる、また、自分の愛に対する忘恩を想像したときに、そのことに耐えられない自分というのが結局は愛に対して愛の報酬を求めることしかできない人間なのではないかと悩む者に対して、長老は、そのように真剣に考え悩んだ時点ですっかり浄められるのだとさとし、それ以上嫌悪や恐れの気持は抱くことがないといい、恐れの気持はすべて己の嘘の結果でしかないのだといい、そして想像上の愛というのが演劇のように短い時間ですっかり成就され、すぐに賞賛を浴びなければ長続きしない性格をもつのに対して、実行愛というのは仕事であり、忍耐であり、あるものにとっては学問にさえなると説く。 目的から遠のいているのではと不安を感じる、まさにその瞬間でさえ、ふと成就される可能性があるのが実行愛であると。 じぶんがギクリとしたところ、心に残ってしまったところを駆け足でかいたのだけど、ぼくはこのやりとりをみて、キリスト教になんとなくアンチだった気持が、おそろしく幼稚で偏見にみちたものだったのじゃないかと感じた。 それでキリスト教万歳というわけではなく、なんというか、自分も結局「記号」として性急にものごとをとらえようとしてたんじゃないかと。 「キリスト教」とか「ニューエイジ」とか、そういう言葉にまどわされてしまって、感じ取るべき大事なところを見過ごしてきたんじゃないかと。 だって、アメリカ政権やなんとなく感じるアメリカの大味な気質が嫌いだからといって、アメリカのなかにあるいろんな素敵な心を無視して「アメリカ嫌い」なんていうのはバカのやることで、それと同じで「わたくしクリスチャンでございません」からといって、その中にある自分にとってとても大切な考えまで無視する必要なないわけで、言葉のもつ記号の壁なんかとっぱらってしまって、ありとあらゆるものから、正しい、有意義な、美しい要素をとりこんでいきたいだけなのであって、なにをぼくは今まで無駄な偏見を… とおもったのでした。 オウムからだって、原爆投下からだって、ヒトラーからだって得るべきものはあるわけで、それは「反省」というものでとどまらず(反省は結局そのもの自体の否定に上になりたっているんだから同じ)、全体として「悪」であってもその中身を分解すれば、あれだけのエネルギーを発したからには他にはない輝きをもった肯定すべきなにかが見つかるかもしれないわけで、社会としてとらなければいけないポーズと、個々がそれらから学ぶ姿勢というのはまるきり違うものだと気付いていかなければならないんじゃないかとおもったのです。 こういうのを混同しちゃってしつこく考えないから、大麻=麻薬みたいな洗脳にすっかりのせられて、こういうことを書く人間を安易に危険分子としてみなす、体制にとって都合のいい安全分子マジョとしてにこやかにばからしく一生を送る気持悪く腹立たしい金魚のふんみたいなやつらが溢れて、そして犯罪も戦争も女子アナなくならない悪循環。  とにかく女子アナきもい! ←いってる先からカテゴライズ偏見!!!

2004-06-11-FRI

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