No.671 世界観

ほんとはホタルを見に馬見ヶ崎上流のホタル保護地区にいきたかったんだけど、帰るなり雷と不規則な雨が降り出したので断念。 すがすがしい晴れの日の夜に、夏休みの少年の気持ちでみたいのだ。 さぽが寝たのでぼくは風呂にはいって眠気をとばし、居間でカラマーゾフを読む。 直接的にそんなことがかいてあったわけではないのだが、というかそんなことには微塵もふれていないのだが、同時に走ってる自分の意識とゾシマ長老の話が複雑に反応して、不意に、人間というか生き物というか世界の、すごくはっきりしたとらえ方が心に浮かび、なにかがぱぁっとひらけた気がした。  そもそも魂だとか精神だとか、それらの輪廻とかいうのは、ほんとうに言いたいことをちょっとロマンティックにしたてあげちゃってるだけで、しかしそうしたてあげちゃったことでいたってシンプルな世界の真実がかえって分かりづらくなってしまったのじゃないだろうか? このロマンティックで、かつだれもが採用している「閉じた個」の絶対性みたいなものがあるから、人は「死」を恐れ、必要以上に「自分」を自分として唯一無二の絶対的な主体として考え、また、「人間」だけが「自然」と切り離された特異な進化をとげた高等な、そして不幸な存在だと認識するんじゃないだろうか?  ぼくがまず疑問に感じたのが、本当に「個」というものが絶対的なもので、精神といわれる神秘的な「@」でそれぞれ分離してるんだろうかということ。 ぼくが「やすはらしげる」というかっことしたなにかひとつの孤立した存在なのかということの再確認をしてみなければとおもったのだ。 はたしてこのテーブルとぼくは「別」といいきれるか? はたして外の木とぼくとはつながっていないのか? 「やすはらしげる」という精神、意識、魂はほんとにここに「やすはらしげる」というアイデンティティをもってしっかと存在しうるのかどうか? ぼくは自分の意識をできるだけ落ち着けて、フラットな、静的な状態の「やすはらしげる」をまず自覚してみようとした。 静的な「やすはらしげる」を「自覚」しようとおもう別意識がはたらく時点で「動的」になってしまうわけだが、そこはさっぴいて、とにかくここに「やすはらしげる」といわれるような、そして自分が思い描いていたような「存在」があるのかをはじめて探ってみようとしたのだ。 しばらく心を落ち着けて、静寂の中、視覚情報を遮り、できうるかぎり力を抜いて自分の精神を波ひとつたたない水面のようにしてみようと頑張った。   ところが、どんなに心を落ち着けようとしても、次々に情報の電気が脳内を飛び交い、それがいつもいうところの意識みたいなものになってごちゃごちゃと絡み合い、「考えている」とはとうていいえないようなチビ情報交換が無秩序にほとんど自動的に行き交い、「うーん、頭の中なんてのは常にこういうもんか」とおもった瞬間、はっとした。  そうだ、頭の中なんてのはほんとは常にこんなもんで、自分が「自分」と思っているような「かたまり感」のある「人格」のようなものや、あのときぼくは「こういう風におもっていた」なんていう「思考」の印象なんていうのは、後からそのごちゃごちゃを自分のできうる範囲でこれまた自動的に統合したダイジェストみたいなもんで、なにがいいたいかといったら「現実」におこっている(存在している)のは脳内の自動的な電気信号の交換という科学的な現象だけなんじゃないかと。 「魂」とか「意識」というのはあたかも自分だけが自分のそれを知覚しているまさに自分そのものとして不思議だけど実在している霊的で絶対的な何かみたいなことになっているけど、ほんとはコイルの中に鉄を巻いて電流をながした時に発生する「磁場」みたいなもので、あくまでいままでぼくが感じていた「人の意識」という時のロマンティックで特別なものではないんじゃないかということ。 「そこにそういう早さでそういう強さの電気がそういう角度で走ればどこででも再現可能な磁場」でしかないんじゃないか? つまり、パソコンのCPUの中にもぼくらが「自我」と呼んでいるようなもの、「意識」「精神」と呼んでいるものと同じようなものが発生しているんじゃないか?  ここで大事なのが、決してパソコンを擬人化するわけでなく、逆に人間の「特別性」をとりさるということ。 何の疑いもなく採用してきた「人間の意識の特別で絶対な存在感」をとりさることで、植物や昆虫に「感情」を当てはめたときに分かりづらかったことも全て反対方向から納得いく。 あちらに感情がないのではなく、こちらの感情というものが「フィクション」だった。 おそらく絶対的にある「感情的なもの」というのは「快・不快」といったシンプルなものでしかなく、それらは分子レベルを「個」ととらえた場合も「結合するか否か」ということで成り立っていて、人間が複雑に仕立て上げて「感じている」ことになっていた「感情」も、分解していけば「快・不快」の組み合わせにすぎない。  さて、ぼくらが「とある森」を見たとき、ぼくらは一個一個の木を厳密に「個」としてとらえることはあまりしない。 もちろん木が2本あったら「木が2本ある」と認識はするが、「人の精神がふたつある」時ほど絶対的に分かとうとはしない。 知能の高い動物を人間は擬人化して考えるので、ここでほ乳類などをだすと紛らわしくなるので昆虫を例にとり、はたして昆虫は自分が動き回るフィールド全体、つまり「自分」に対する「環境」というものを明確に「自分」と分けて考えているだろうか? 昆虫に「自己」なんて概念は絶対にないとおもう。 彼らは自分を「自然」と切り離して考えたりしないし、そして切り離された存在でなど決してない。 そしてこれは決めつけでしかないが、延長線上で、おそらく高等なほ乳類にも、そして人間にも本当はそんな考えはない。 「考えはない」とは、つまり、自然界において切り離されて存在しているなんてことが「真実ではない」ということを意味する。 複雑な磁場は複雑な「想像」をし、それをあたかも真実とおもっているが、すべては妄想である。 自然界から切り離された存在など無い。 意識とよばれる磁場がうっかり「自己」を重視するあまり生まれた、とんだフィクションであり、悪夢なのだ。  だから「死」ということにも普通ぼくらが考えるような絶対的な「無」とか「停止」とか「滅」といった受け入れがたい恐ろしい意味合いなどはなからなく、元々地続きのものの形態が多少かわるくらいのもので、何ひとつ怖いことなど無い。 むしろ、個を自覚するあまり自然との分離を感じるような複雑な回路から開放され、本来そうあるべき自然との一体感をあるがままに体現できる存在に帰る喜びだけを感じるくらいだ。 と、そういうことを、気休めでも詭弁でもなく、ほんとに心から感じてしまった。 生まれて初めて、完全に「自然の、宇宙の一部である自分」ということをまったく疑いの余地なく確信できた。 こう考えることができてみると、自然と自分を分けることのほうがよっぽど奇妙な、変わったものの見方、感じ方だと気付いた。 なるべくしてなった世界像なんだろうけど、それは決して真実ではなく、「人間」のときにスムーズに生きていく為に便利な「便宜的な枠」のようなもので、とっぱらってしまった方が断然楽だという「自然との一体感の記憶」が強い人だっているわけで、ぼくはそれゆえどうにか「自然」に帰りたい、溶け込みたいと切望していたんじゃないだろうか。  輪廻というのも、わかりやすく「人間」を中心にえがいてあるからなんだか胡散臭くうつるが、しかしぼくが死んで、土に帰り、その養分をすいあげて植物が実り、そのことを「植物に生まれ変わった」とも言えるわけで、その植物を食べた昆虫の子にも生まれ変われば、その昆虫を食べた魚の子にも生まれ変わり、そしてその魚を食べた人に宿る赤ちゃんに生まれ変わる。 当然人間の時に思い描いていた「個」なんてものにもはや意味はなく、すべて細かくわかれて混ざり合い、つなぎ目も境目もない全体に溶け込んでいるから、「これの生まれ変わりはこれ!」なんていいうはっきりした構図ではない。 はっきりした構図ではないことが、よりいままで知っていた輪廻転生のそれよりもリアリティを感じる。 さらに今のべた輪廻解釈は、土にかえるところから始まった以上物質的なところに限定してしまっている感があるが(ほんとはそんなこともないが)、例えばこの文章を読んでくれて、なにかしらの印象をもった誰かいわゆる「他者」に、少なからずぼくの「なにか」は入り込み、残る(完全に否定され、嫌悪感をもたれたとしても、そこにはしっかりと嫌悪としての印象が残り、そこから派生する細かな変化がある)。 これは「精神」といわれるようなエネルギーの輪廻的な流れといえるんじゃないかしら?  電波くさいといわれればそれまでだが、しかし現時点でぼくはこの見方が一番素直で不自然じゃない世界像だと考える。 (どう考えても「切り離された個」というのが絶対に不自然だ。 だったら例えば自分の中にいるいろんな善玉菌は、はたして自分か? 他者か?) 

2004-06-29-TUE

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