No.672 例の多発タイミングなのかカクテルパーティー現象なのか

昨日の今日で、こんな文章に巡り会うから不思議なもんだ。 

「〜〜しかし最初にまず人間の孤立の時代が終わらなければならないのです」「孤立とはどういうことです?」わたしはたずねた。「現在、それも特に今世紀になって、いたるところに君臨している孤立ですよ。でも、その時代は終わっていませんし、終わるべき時期も来ていません。なぜなら今はあらゆる人間が自分の個性をもっとも際立たせようと志し、自分自身の内に人生の充実を味わおうと望んでいるからです。ところが実際には、そうしたいっさいの努力から生ずるのは、人生の充実の代わりに、完全な自殺にすぎません。 それというのも、自己の存在規定を完全なものにする代わりに、完全な孤立におちこんでしまうからなのです。なぜなら、現代においては何もかもが個々の単位に分かれてしまい、あらゆる人が自分の穴蔵に閉じこもり、他の人から遠ざかって隠れ、自分の持っているものを隠そうとする、そして最後には自分から人々に背を向け、自分から人々を突き放すようになるからです。 一人でこっそり貯えれば貯えて、今は俺はこんなに有力で安定したと考えているのですが、あさはかにも、富を貯えれば貯えるほど、ますます自殺的な無力におちこんでゆくことを知らないのです。なぜなら、自分一人を頼ることに慣れて、一個の単位として全体から遊離し、人の助けも人間も人類も信じないように自分の心を教えこんでしまったために、自分の金や、やっと手に入れたさまざまの権利がふいになりはせぬかと、ただそればかり恐れおののく始末ですからね。 個人の特質の真の保証は、孤立した各個人の努力にではなく、人類の全体的統一の内にあるのだということを、今やいたるところで人間の知性はせせら笑って、理解すまいとしています。しかし今に必ずこの恐ろしい孤立にも終わりがきて、人間が一人ひとりばらばらになっているのがいかに不自然であるかを、だれもがいっせいに理解するようになりますよ。もはや時代の思潮がそうなって、みながこんなに永いこと闇の中に引きこもって光を見ずにいたことをおどろくようになるでしょう。 そのときこそ天上に人の子の旗印が現れるのです……しかし、そのときまではやはりこの旗印を大切にしまっておき、ときおり一人でもよいからだれかふいに手本を示して、たとえ神がかり行者と見なされようと、魂を孤立の世界から兄弟愛の交感という偉業へひきだしてやらねばならないのです。 それこそ偉大な思想を死なせないために…」

基本的なステージが社会的なところという違いこそあれ、ところどころ、グニャッと「個々の精神と自然界そのものの遊離」を指摘しているような感じが見て取れる。 おそらくこの長い台詞の人物の心理は、全体に色濃く匂う「共産主義的な社会的な統一思想」ではなく、ぼくが昨日べちゃべちゃとかいたことに限りなく近いとおもった。 昨日の今日で、こんなに似たような言い方で社会をとらえた文章に出くわすんだから、面白い。 社会主義がスムーズにいかないのは、社会的なところだけ個性を抜け出し、精神的な所ではまだまだ個を個としてとらえているそのギャップのせいではないだろうか? 精神的な、というか自分の存在までもあまり意識せずに全体の一部と感じることができれば、わざわざ人類補完計画なんていう大仰なアクションもいらないなかったじゃないかゲンドウ。 形の分離に惑わされず、全体を流れとしてとらえる。 だって、童貞が一撃で童貞とわかるのは彼がこちらのなかにすっかり入ってくるからですもの。 はいったりでたりの交換のなか、どうしてこの肉体についてまわる磁場が絶対孤立のやすはらしげるであろうか? ぼくはキムさんの首を切った残虐な男でもあり、そして切られたキムさんでもあり、その映像を見たがる松木さんでもあり、それを怖がる大谷さんでもあり、すべてを仕組んだブッシュでもあり、そして大好きな庭の梅の木でもあり、いつか自分自身につられる山女魚でもあり、お金がたまりしだい欲しいロッドでもあり、しかしそのロッドはまだ製造されておらず、未来という概念がはいってくるといったときのその「未来」というフィクションでもあり、つまり時間そのものでもあり、すべてを内包した次の高さの(n+1の)次元が、「全て」こそが自分であり、自分というのは「全て」のことであり、あの子もこの子もぼくがまだよくその発生原理をわかっていない竜巻すらミミであり、なんという究極。 ところで、無は完全なる密と違いがないじゃないか??とこないだ車にのってて思いついた。 これは結構おもしろいとおもう。 間逆の現象、状態が、互いになんら実質的に変わらないとすれば、一部は全体である証明になるのじゃないかしら。

2004-06-30-WED

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