No.724 華氏911

仕事がおわって家に帰り、さぽと華氏911を見に行った。 ほとんど予想通りの内容、ノリ、情報量だったが、しかし、その予想通りのものをひとつのよくまとまった作品として見せられることで、ここまで心乱されるとは予想できなかった。

すくいようがない。  限定したあいつらがすくいようがないというのなら勧善懲悪でさっぱりするのだが、問題はそう簡単な事じゃない。 ぼくがこれを見ている間、一番恐ろしいと感じた対象というのが、底辺の命を命とおもわない資本家たちでもなければ、息子の死だけを怒りのモチベーションとしてしまい、本質的な問題をすり替えてしまって限りなく危険なものになってしまったかわいそうなお母さんでもなく、他でもない、これを見終わって、いろいろ考えさせられたあげく、こんなこと考えたままじゃいきていけないといって忘れてしまってまた目の前のことにいっぱいいっぱいの生活がはじまる自分自身の姿だった。  「人類」という現象は、或る程度大きなスケール、時間でみた場合、なにもかわらないようにさだめられているのではないかという強烈な不安が、ほとんど確信といっていい絶対的プレッシャーでもって心をつつんだ。 つまりは無関心、想像力の欠如、なにより「自己」というそもそもの概念の勘違い。 いや、全然違う。  「仕事がおわって〜」から「〜の勘違い」まで、なにひとつただしい気持ちがいえてない。 嘘だ。 なにをかいてんだ? そういうことじゃない。  なにが嘘だ。 違う。 ←この違うも違う。  ああ、わかってきた。 そう、大丈夫だったんだ。 なにかといったら、なにが大丈夫かといったら、いったらだ。 違う、そもそも圧倒的な間違いの上に立たされているからどうしたって答えもでなければ、全部が「だめ」みたいにおもっちゃいがちだけど、「そもそも圧倒的な間違いの上に立たされている」ことが、つまり救いだった。  坂道の上に、木も家も空までも中の住人をだまして垂直を演出していても、しかしやはり水は斜めにおち、ボールはけっしてまっすぐ跳ね返らず、つねに住人はおなじ壁に転がっていってしまう。 そういうことだ。  土台のゆがみがあまりにもひどい社会に生まれ育ってきたから、ちょっと立ち向かえないとか、為す術無いとか、感じたり、あるいは頑張っているひとの徒労をみるたびに、「絶対的ルール」を作り出してしまい、絶望を感じ、すべてのものがすべての悪に荷担してしまっていると考えていたけど、個々の持つ自然な「ムラ」なんてものは悪でも善でもなく、なんてことない、魅力的なゆれ幅でしかない。 外側の強大な歪みを仮にとっぱらって考えてみた。 わあ。 うわあ。  あいつらがいっぺんに死ねばそれでいいんじゃん。  身近な馬鹿は大きくなる前に潰される。 もはやつぶされる。 美しく、正しく、大きな流れはすすむ。  それでいいんじゃんというのはおかしいみたいだけど、土台がこれじゃあ「どうしようもない」ことを肯定できたことがぼくの中ですごいきらめき、革命で、大丈夫とはつまりそこ。 だめじゃない。 個々の誠実は存在する。 間違いなくきれいにみえてたものは実際にきれいだったんだ。

というような思いが映画中に、ある瞬間にババババババっと浮かんできて、すごくあたらしい広い土地が、ぼくの脳の「希望野」にできた。 みんな善良できれいだ、民衆は。 そういうふうに新しい角度から新鮮に思えたというのがすごく意外というか。  天災がおこり、90%くらい死滅。 マネーのカチが根本の根本の根本から無意味に。 夢のようだ。  唯一の希望、それが人類の外側からの強大な力。 そして生物リセット。  10%の中にのこる悪は、実際的な悪で、それは美しい。 何かにのっかった悪ではないのだもの。  悪でないものの悪ではないのだもの。  それとはべつにイライラする気持ちで家に帰り、さあてどうしようかと居間でこの夜をどうすごそうか悩むぼく、すでに寝床にはいったさぽちゃんす。 そして突如鳴り響くさぽの携帯。 時刻は12時。 明日へつづく。

2004-08-21-SAT

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