No.728 中華おこわ

ちゃんすが作ってくれた中華おこわがとてもおいしかった。 小さなエビと栗と椎茸が入っていて、餅米が茶色にしみていて、噛んでるといつまでも旨味が口の中に溢れ出してきて、幸せいっぱいになる。 じゅくじゅくに味がしみた茄子の煮浸しと一緒に口の中にいれて口中料理をすると、さらに信じられないおいしさ! やったぞちゃんす! すごいぞちゃんす! この調子だ!  ほんとは今夜はフッキンをたっぷり練習するはずだったんだけど、なんとなく見始めた釣りバカ日誌9があんまり面白くてやめられず、ふたりして最後まで見てしまった。 すーさんも佐々木課長もハマちゃんも馬場部長も、みんなすてきだ。 深夜、さぽと「there」について勉強するが、あんまり丁寧に、その本質的な意味から書いてあるもんだから、感覚的にわかってたちゃんすは逆に頭がこんがらがってわかるものもわからなくなってしまうといってすぐにやめてしまった。 ちゃんす先生はただでさえ重度の記憶障害があるうえ、思いこみの激しい子なので、本当はこういうところをバカにしないで誠実に丁寧にやったほうがいいんだけど、まあこういうのは人からいわれてやっても何も意味がないのでぼく一人で贅沢に楽しむ。 There is a cup on the table. って、あたりまえのように使ってきたけど、この文、肯定文のくせに主語と動詞が入れ替わっているのね。 普通だったらこれじゃ疑問文じゃん。 変だ。 そして頭にあるくせに決してThereが主語ではない。 その証拠に、be動詞は直後にくる主語によってareだのwasだのwereだのに変形するでしょ? 同じThereではじまる文なのに。  ところがThere文の疑問文はIs there a cup on the table? と、まるでThereが主語のような入れ替わり方をするし、その答え方も、本来の主語に対してYes,this is.ではなくて、またもThereが主語ででもあるかのごとくYes,there isとなる。 こんな当たり前に使えていたとおもっていたThere文でさえ、大原則をことごとく無視していたのだ。 こういう不思議さとか納得いかなさを無視して進んでいってしまう授業がぼくは大嫌いで、それに当然のようにのっかっちゃう生徒も大嫌いだった。 わかってないやつほどわかってる顔して、ほんとにわかってる人は自分でどんどん高度で細分化した疑問をつくりだしてわからない顔になっちゃうものなのだ。 だからさぽがよく「数学の授業とかで、そもそもその公式の意味がわからなくて死にそうに気持ち悪くていらいらしてあせってるのに、みんな涼しい顔して授業についていってるのがかなり耐えられなかった」というような話をきくと、とても安心するのだ。 こういうタイプの人じゃないととてもじゃないけど一緒にいれない。 わかったふりして、というよりもそもそもどこがわからないのかさえわからないような鈍い人とははっきりいってお話ししたくない。 頭がわるいと心がわるいを分離させて、頭がわるくても心の綺麗なひとだっているじゃないかというような論調で話してくる人がよくいるが、そういう人のいう「頭がいい」というのはまず例外なく「学校のお勉強ができる」という狭義、いや、狭義じゃないな、むしろ場合によっては「逆」の頭がわるい人のことで、本来頭がわるいと心がわるいが分離するわけはなくて、それこそ「あたま」とか「こころ」とかいう言葉にすっかりだまされているだけで、心がいいひとは、いうまでもなく当たり前に頭が、思考が、精神が魅力的なものだからこそ心が反映しているように一般的にとられる現象に対する周囲からの評価がいいわけで、ほんとに頭が悪いやつはそのすべてから臭い汚いくだらないオーラを発していて、お世辞にも心がいいとはいえない。 わかった顔してなんだかよくわかってない成績のいい愛のない馬鹿は、つまり頭が、心がわるいやつらで、戦争をはじめるやつらで、地球をよごす奴らで、いらないものを増やすやつらで、フィクションの中にしかいきられない奴らで、だれかの言葉ではなすやつらで、特に目がとても魅力的な光を放ってないやつらで、本当の輪を乱しながら猛烈に偽物の輪を大事にするやつらで、死を恐れるやつらで、幸福をしらないやつらで、ヒマだーというやつらで、普通じゃつまらないともいうやつらで、個性とか自由という「言葉」が大好きなやつらで、個性とか自由ということを死ぬまで理解できないやつらで、「姿」の醜いやつらで…  「姿」とはすてきな言葉だ。 「姿」の美しい人になりたい。 自分のできうる限りの誠実さでもって丁寧に丁寧にひとつひとつのものごとに触れていくことで、それは自然となしえることだと確信している。

2004-08-25-WED

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