No.742 へこ!

今朝歩いて会社に行く途中、信号待ちしているときに、でかい交差点の斜向かいの女子高生がとても気になった。 ほとんど顔形なんか判別つかないほど遠いのに、確実に好みの姿をしていると分かるこの不思議。  ためしにほかの有象無象に目をやるが、やはり全体的に醜い(形状もさることながら、細かな部位の動きからすでに知性も愛も、なんの魅力も感じられない)。 姿勢とか、立ち居振る舞い、そういうものが表す「己」というものは確かにあるとはおもっていたけど、こんなに離れていても、共鳴出来た場合ってのはここまで強烈に明確に感じることができるんだなと感心しつつ、悪びれもせずにずっと彼女を凝視していた。 豆粒みたいに遠くにいても、魅力的な人ってのは何かステキなもんだ。 動いて、止まるそのタイミングひとつとっても、なにかセンスがいい。 昆虫にも美的な動きを心得ているものと、俗悪な商業音楽を連想させるような動きをするものとがある。 あいつらはきっとなにか歴史上「狡」をして、あんな原始的な存在でありつつ、かなり生命として不自然な進化をしてしまったのではないかしら?  自然界から感じる嫌悪というのは、不自然に他ならないとおもう。 例え自分の生命を脅かすような自然の猛威も、そこに嫌悪は微塵も感じない。 圧倒的な美と、畏怖を感じるのみだ。 嫌悪を感じるものというのは、もう本格的に、どっからどうみても、大いなるルールから外れた圧倒的な無駄、なんだと思う。 世界を健康に運営していくために不可欠な「悪魔」の存在さえ、負の役割としてしっかりと大いなるルールに根ざしているため、それはぞっとするほど美しい。 はかりしれない悲しみを生み出し、多くの愛を踏みにじることになろうとも、そこに生ずるのは美しい怒りであり、ちんけで醜い表情に感じる嫌悪とはまったく質が違うものだ。 しかしその印象も、ぼくが語る印象であるならばどうしたってぼくの鏡でしかなく、ぼくが感じ取れない、ぼくの感受帯域外のものは見えてこないという宿命、自然の摂理の産物で、なにを考えようが、どこまでもあかぬけないんだな。 だから日々の変化こそが唯一の救い。 ガタンというぐらいのおのれの感受の変化を感じたならば、ご馳走を用意してもらいなさいな。 ぼぼぼぼくは特に、特別に、振動に裏切られる知性とか、極端な温度差の閾のところの、その変化と垂直方向の面の、早い流れに心地よく乗る知性だとか、そういう類の知性にぐっときやすい。 なにをいってるかといったら、自問自答の中で、スコーンと別ベクトルに飛躍、昇華できる能力を認めながらも、そこに同時にごまかしのようなものを感じてまたしても自問自答がはじまるような美意識こそが、なんとも絶妙で美しく、愛らしい、すべすべと、透明感のある、かっこいい、やさしいものだなーと感じるわけなのです。 うん、なるほど! そこが、そう感じる感じが今のぼくの位置! へこ!

2004-09-08-WED

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