No.763 基礎がない

人を描くのがたのしくてしょうがない。 まだ全然全然全然描けないが、というかむしろ自分の下手さ加減にここにきてあらためて気付かされることになり、すっかり打ちのめされてしまったのだけど、それでも楽しくて仕方ない。 肋骨と骨盤と四肢の比率、その基本的な角度を覚えただけで、今までどうしたって無理だと思ってた複雑なポーズの俯瞰図(例えばボールを蹴った瞬間の人を2階から見下ろした図)なんかでさえ、なんとなくだけど描けるようになってきた。 描けるといってもまだ筋肉や服をつけては全然描けないが、骨格のみならなんとなくそれっぽく見えるようになってきた。 2日や3日で、デッサンのパラダイムシフトが起こった。 今までなにをどうやって描いてたんだ? 肘が肋骨の一番下と同じ高さ、手首が足の付け根と同じ高さ、足の付け根が体のほぼ中心、その足を等分したところに膝、こんな基本的なことさえ脳にはいってないで、よくも「バランス良く描けねー」なんていえてたもんだと自分にびっくりする。 何をするにも集中して獲得すべき基礎があって、それがないといつまでたっても誰もが自然と到達する非常に低いレベルから脱却できないと頭でわかっていても、自分の生活に物心ついた時からなじんでいた「描く」という行為については盲目になっていた。 このことにこのタイミングで気づけて本当によかった。  ギターのアドリブがスケールの深い理解と反復練習による「体が勝手に動く」という強力な武器なくしてありえないように、想像人物画だって人間の体のシステムについての深い理解と反復練習による「単純なオブジェクトの3D自由自在描画能力」なくしては絶対にありえない。 極端な器用さでもって感覚で描いている人の絵や、写真をなんとなく模写(3次元物体としてとらえて頭のなかで再編集することをせず、機械的にそっくりに描こうとする行為)している人の描いた絵は、やはり説得力もなければドキドキするような実在感、ソリッド感がない。 抽象表現の魅力ある絵も、いままで気づけなかった部分を、高い精度で2分して見れるようになって驚いた。 すなわち、基礎の有無。 後者の表現は実は表面的なひとつの技巧でうすっぺらくごまかしているに過ぎず、描ける人から見たらもう笑っちゃうような恥ずかしいものなんだろうなとい感覚が急激にわかってきた。 いままでこんな見え方はしなかった。 人気のあるイラストレーターや絵がうまいとされている漫画家なんかでも、やはり根本的なところをすっとばして999の車掌さんのように実態(基礎)の存在がぼんやりしてただその上にパリとした服を着てるだけの人は分かる。 ばれる。  場末のジャズピアニストからみたつんくが情けないピエロであるようなことが、当然この世界でもあるわけだ。 盲点だった。 段取りってのは大事だ。 基礎ってのはほんとに大切だ。 ぼくは現在の仕事の基礎というやつがまるでない。 その場その場の器用さと、持って生まれたパクリ編集能力と、スプリンター的突発的過剰執着心とが混ざり合い、なんとなくこれまでやってこれたが、実は抑えるべき基礎が何もないということに、今、これを書いていて気付いてしまった!  やべーー!!!!!!!  やーーーーーべーーーーーーー!!!!!!!!!!   たたたたたたたのしーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!

2004-09-29-WED

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