No.764 日課

午後から新しい仕事を始めて、一番むずかしく苦痛が大きいアイディア出しと、ざっくりとしたレイアウトと色の配分(漫画でいったらネームの段階)を終え、後は明日の午前中にディティールアップするだけ、というところで仕事をやめると、帰りがほんとに気持ちいい。 辛いところを乗り越えた喜びと、ディティールアップという楽しい仕事に明日の午前中が守られている安心感とで、W気持ちE。 もちろん同時に複数の仕事が進行しているからなにがどうなるかなんてわからないが、わからないことまで心配してたらこの仕事、冗談じゃなく精神崩壊する(故にもんのすごく人の回転が激しく、図太い人や変態や本格的に才能の無い人しか長くは居れない。とにかく人が育たない…)ので、予想できる範囲だけでも[ ソワソワ要素]を無くして帰るというのはプライベートの精神衛生上非常に有効なのだ。 今日はそれに成功したもんだから、家に帰ってフッキンではなく「腹筋」をする余裕まであった。

一年に一回、衝動的に筋トレしたくなり、そしてぬめーっとやらなくなる。 去年なんてこの日記に別文字で筋トレ枠設けて書いてたのにいつのまにかフェードアウトするヘタレっぷり。 なんでやらなくなるんだ? なんであろうとやり始めのモチベがずっと続きさえすれば、みんななにかしらのプロフェッショナルに簡単になれちゃうはずなのに、どうして動機というのは薄れていってしまうのか。 期待する速度で目に見えて気持ちよく進歩していけば動機も持続するんだろうけど、我慢の限界を超えて進歩が見られないともうダメなんだよな。 さらに生活がしんどくなってくる時期なんかが重なるともうダメ。 楽しいことさえ面倒になるのに、忍耐を伴うことなんてとてもじゃないけど続かない。 これを乗り越えるのはもはや己を超えた動機をもつ他ないのだが、世の中にはなかなか己を超えた動機なんてのは存在せず、己と己の外の中間ぐらいにあって一番有望なのが「意地」かな。 意地ってのは強力だ。 意地って英語でなんていうんだ?  今回はどこまで意地が働くか? 大切なのは、好きこのんで選んで行う一(いち)イベントとしてやるんじゃなく、この日記のごとく、生活の一部として有無をいわさずやらなければいけない「日課」として体にしみこませてしまうこと。 そうなると、ほんとに「やらないわけにはいかない」という理由抜きの絶対的強迫観念が生まれるのだ。 「日課」と呼べるほど生活に、己に、くいこんでくると、それはもはや自分自身といってもいいような存在となり、それをやらないこと、それをやめることは、己の一部が欠如するような感覚になってしまうのだ。 私から柔道とったらなにが残るの?みたいな。 だから多分コンプレックス強いほど継続する意地みたいなものって強力なんじゃないかしら? アーティストなんてほとんどみんな健常者じゃないもの、様子が。  ほんとはキャスティング練習も、絵の勉強も、英語の勉強も、ギターも、囲碁も、サカゲーも、散歩も、音楽を聴くことも、読書も、あれの勉強もこれの練習も、すべて毎日の日課にして継続したいのだけど、なぜかできないつづかない。 「時門」欲しいよドラえもん…

2004-09-30-THU

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