No.771 自嘲か傲りか

気が充実している。 普段、4ぐらいで「ああ、つらい、きつい、めんどくさい」と思う精神レベルを、今週から8ぐらいでも大丈夫なぐらいに設定しているから、いつもなら挫折してしまうような量のいろんなことが一日でできてしまう。 アウシュビッツの最低の生活をリアルに知ってから、多少大変でも「なにが大変なもんか」と思うようになった。 つらいとか大変だとかいうのは相対的な問題で、意図的にグンと設定値を引き上げてしまえば、まあ確かにつらいはつらいんだけど、やればできてしまうことを知る。 マラソン大会みたいなもんだ。 普段、あんなことやろうとも思わなければ、できるとも思えない。 しかし、覚悟を決めて忍耐レベルを普段の何倍にも設定して、いざ挑んでみればあら不思議、みんな信じられない長距離を信じられないスピードで走りきれてしまうじゃない。 学生の時の生活から今の生活を見たら、とても無理だと笑っちゃうだろう。  日々、自らの能力を限定してしまい、できることもできないとおもいこみ、耐えれることにも耐えれないと信じ、なんのためにそんなことをしているかといったら、なんのことはない、ほんの目の前の「楽」の為でしかなく、それでなにが残るかといえば、己に対する不満のみである。 楽して狡してごまかして、それで何も感じない人はそういう種族として生まれ、それなりの役割をもっているのだろうからそれでいいんだろう(ほんとうにそれでいいんだとおもう)けど、楽して狡してごまかすことによって、それによって回避した苦難よりもさらに深い苦しみや後悔、自責を味わうようなタイプの人間は、間違いなく己を限定すべきじゃない。 より不幸になるだけだ。 反射的な自己嫌悪、長期的なむなしさは、「そうじゃない」という直接的サインだ。 ほんでカラマーゾフ的にいったら幸せになれないタイプのそういう人間がに対して、ぼくは無条件で感傷的になる。 感じる。 一生苦しんで、ゆり深く、より大きく、よりしなやかにならなくては。

2004-10-07-THU

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