No.789 誤解

ほぼ日をなんとなく見てたら今日のダーリンにとてもいいことが書いてあった。 岡本太郎の言葉。

「誤解の満艦飾になれ」

太郎は、理解されようとか、自分をこう思われたいなんて理想はきっぱりと捨てて、誤解を勲章のようにして生きていたのだ。 トリックスターといわれるゆえんである。 これだ、そう、この感覚こそ、究極の部分で素敵かそうでないかの分かれ目なのだ! すべてに理解されようなんて思うのはうす甘いおとぎ話だとつくづく思う。 印象なんてのは判断する側にほとんどがかかっているのだから、こっちが躍起になって、ぼくはそんなんじゃないんだ、もっとこんなに清いんだぜ!なんてやってもあちらがそんなもの望んでなかったり理解できる智慧がない時点でどうしようもない。 人からどう思われようが気にもせず、確固たる信念をもって、自らが納得いくようそれに従っているときにこそ、そこには美しさが在り、生きているという喜びがあるんだとおもう。 よく全てのひとにいい顔をして、あらゆるフォローを自ら買って出て一手に引き受け、簡単な解釈で「いい人」といわれるような人の多くは、他人を気づかう愛に溢れているというよりはあらゆる人から悪く思われたくないという自滅型の強迫観念にかられている場合がおおく、その笑顔はとても魅力的とはいいがたい、なにか不憫なものだ。 自分自身がなさけなくかっこわるくいびつに感じるときも、やたらどう思われたか気になるときとか、なんだか誤解されてるみたいで心配だなぁなんて考えてるときで、そういうときは大体信じている柱そのものが揺らいでいる時だ。 新しい人とふれる時ってのは大体みんな自分の印象というものを考えて、なるべく自分が自分とおもっている本当の自分(らしきもの)とブレのない印象を与えようとしていろいろ考えるんじゃないかしら? そういうことを考えている自分がとても嫌だなーと感づいてしまって、うまく話せなくなったりいつもの自分を見失っちゃったり、変にうけとられるくらいならなにも情報開示しないで貝になることを選ぶ人タイプの人、そしてしまいに自己嫌悪に陥ってしまう人ってのが、いわゆる「人見知り」なんだろう。  単なる無神経でなく、意図して「誤解の満艦飾になれ」という態度はとても繊細で力強い、美しい姿だ。 学生の時分と比べれば比較にならないほど誤解を恐れなくなったが、それでも誇らしげに誤解を飾り立ててやろうという陽気さまで肯定的に(皮肉ではあるが)もとうとは思えなかった。 そのぐらいの気持ちが、人と人の交感というこの困難な問題に立ち向かうにはちょうどいいのだ。

2004-10-25-MON

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