No.797 night train home

矢野の新譜とともにさぽが帰ってきた。 すっごい。 レイハラカミと矢野の融合がすごかった。 もちろんくるりとの相性もすばらしく、全編とおしてすごくおもしろいアルバムなんだけど、ラストのnight train home という曲のレイハラカミバージョンがすさまじいことになっていた。 ぼくは前から、すでにインストとしての完成度の高い楽曲に歌がのっているタイプの歌モノがどうしても苦手で(スティーリーダンとかシーアンドケイクとか、あとあれはあれで好きなんだけど竹村の楽曲のアキツユコの声もなかったらいいかもと思ったりとか)、これは冷静に考えれば素直にインストの方が断然いいんじゃないか?とおもうことがよくある。 この曲もハラカミのつくりだすものすごいサウンドスケープがあいかわらずとてつもない完成度で、ほんとこれ以上なにもいらないじゃんというものであることは間違いなかった。 間違いなかったのに、そこに矢野の歌がはいって、愕然とした。  未だかつて味わったことがない、とんでもない融合。 エレクトロニカと、歌との、あまりに緻密で完璧な融合。  なんじゃこりゃ!  頭のなかにはあの横をしゃーっと通っていく棒の視点で、すごいどあっぷでしゅるるるっとひらいた縦糸の「角度の間」をすべっていき、音と完全にシンクロしたタイミングでたん!と横糸がつめられ、縦糸がずふぁ!と交差し、という織物の織られていくマクロ映像が展開し、口からはヨダレがたれ、当然坊やはエレクトし、脳内麻薬過剰放出罪でつかまっちまうんじゃないかというくらいの恍惚状態が続く。 そのくらいすげー。 歌が、ここまで自然に、ここまで美しく、ハラカミの音にはまるだなんて、想像もしていなかった。 バラの花でのリミックスは確かにすばらしかったんだけど、あれはありものをいじったということで、いわゆるリミックスとしての完成度の高さとしてしかみれなかった。 このnight train homeは、ハラカミの楽曲用に、歌やハーモニーをちゃんと考え抜いて変えている。 歌に対する伴奏としてはあまりに表に出たとんがった楽曲、完成されたインスト曲のひとつの楽器的役割の声と言葉にしては、あまりにしっかりとした骨格ある歌。 それらがぶつかることなく、ほんとに一ミリの狂いもなく凄まじいスピードで美しく、激突ぎりぎりのところで交差する。 刀みたいなものが9万本くらいありとあらゆる方向に突き出た金属球が、1万個くらい狭い空間で光速で飛び交っている、お互いは刀の先端部分の最大半径では完全に交差しているのだけど、決して刃と刃が触れることはなく、奇跡の連続でいっさいの打撃音なしで、空気のうなる音のみだけが空間をみたし、光がきらめき、さらにそのなかをさっきの織り機の棒が戦闘機みたいな動きでするりするりと通り抜けていって、縦糸横糸すでにおられた反物もその空間にあるのだが、不自然さ無く、なぜだかやはりとびかうとげとげの複雑なひっかかりにまったくかからず、触覚的透明をもつかのごとくさらさらとそこにすごい綺麗な織物ができていくという矛盾だらけのイメージが浮かぶ。 ある角度からつったて見ているとどうみたって衝突し、もつれあってさんざんなことになっていると予想できるのだけど、その棒に目をもてばすべてがふれることなくギリギリを交差することを知る。 くどくどしくなんかいも同じイメージを書いているけど、ほんとにこういう形容を何回も書きたくなるようなすさまじい融合?回避?なの。 ばけもの。 てんさい。 ぼくはてんさいが大好きだ。 一生天才をみていきたい。 天才になれないならば、死ぬまで天才を天才とはっきりわかる目を心を持ち続けたい。 平民の心に実は美はない。 平民の心に美を感じるのは、天才の視点をくぐりぬけた素朴の美に慣れ親しんだための洗脳、勘違い、思いこみじゃあないかと最近おもう。 誠実に誠実に分析した際の、リアルな隣人を愛せず、博愛は可能だという感覚の秘密なんじゃないだろうか? これが。 子供の絵に美はない、それを見いだす審美眼の方にこそ美が宿るという持論とまるで同じことなのに最近まで気づけなかった。 でくのぼうの美しさはでくのぼうになれない賢治にしかみいだせない。 スライドもいいとこだ。  いい音楽だったんだよ、ほんとに、それだけでし! deshi!

2004-11-02-TUE

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