No.799 狩猟、農耕

池澤夏樹、母なる自然のおっぱいを読んで。  狩猟民族と農耕民族、前者は生き物を殺してその肉を喰うということで、荒々しく残虐なイメージがあるかもしれない。 それに比べて農耕民族は畑のものを食べるから穏和。 でも、実際はそうではなく、残酷な、攻撃的な、貪欲な性質を人間が獲得して世界が歪んでいったのは、他でもない、人が畑をつくるようになってからなのだそうだ。 狩猟採集経済というのは土地利用効率が悪く、極端な貧困にみまわれることが少なくない。 対して農耕の土地利用効率は桁違いに高い。 ぎりぎりながらもなんとか生きながらえている狩猟採集経済の人たちよりも生産が桁違いに高い、ということは、その高い効率は必ず余剰を生む。 余剰は必然で備蓄となり、それは「富」を生む。 狩猟時代にはありえなかった、慢性的貧富が生まれる。 それは同時に収奪、権力を意味し、そして「戦争」が生まれた。  もちろん生活の安定が生みだした価値ははかりしれないほど大きく、ぼくだって生活のほとんどすべてがその恩恵によってささえられているわけだけど、でも、この時代において、ぼくら世代以下の大多数が突然変異のごとく無意識で急激に感じている世界の違和感、不自然さというのは、まさにそこで生じた歪みのことなんじゃないか?  皆は農業への価値を見直している。 ぼくらのちょっと上の世代のマジョがおぼれたままなかなか抜け出せない刹那的バブル的テレビ的快楽を嘲笑し、自然を見直し始める。 ところがその農業すらも、非常に「人間」的なシフトが行われたあとのものであって、すでに生物として不自然な状態であるという考え方にはじめて出会ったのだ。 計画的な蓄えや、そもそも「住居」という生活ベースがすでに動物的に特異な傾向で、そもそも「巣」というのは永続的なものではなく、一晩だけのキャンプ、あるいは子育ての間だけの仮住まいだったのだそうだ。 ところが人間はその安楽に負けて、大人になってもいつまでも子育てのための「巣」にしがみつき、今ではそれが疑う余地のない「あたりまえ」にまでなってしまった。  今更狩猟採集の生活にもどるのが正しいわけじゃない。 第一環境がかわっている。 さらにいえば狩猟採集民族という段階だって、動物的にはすでに不自然な段階にはいっているような気がする。 なにが不自然だったのか。 「知力」である。 異常なまでの知力の進化が、自然界のバランスをがたがたと崩した。 こうして人間が「動物」でなくなったことが、いいことなのかわるいことなのか、理想のモデルやそもそも地球の目的(そんなものがあるとして)をだれもわからない以上、暫定的な判断しかできない。  人間を狩るものがいなくなってしまったこと(生き物は本来、常にお互いがお互いの獲物であるべきだった)、気持ち悪いぐらい快適な生活をおくっていること、そして動物としてなんともいえない寂しさや違和感を新しい世代が感じていること、そういう事実をつなげて、あーでもないこーでもないというしかないのか。  さて、今日はひさしぶりにヨガにいってみたいのでこれにてドロン。

2004-11-04-THU

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