No.809 チャンス

今日は一日過保護なくらい安静にすることにした。 とにかく炎症をおさえないとだめだ。 ストレッチも我慢する。 やむをえず歩くときも着地の角度にかなり気を使って歩く。 しかしあれだ、体を故障して、徹底的にいろいろ調べたり、体の発する声に静かに耳を傾けるという行為は、とっっっっても勉強になる。  どっか調子悪くなるたびに、いろんな知識が増える。 西洋医学に頼りきった姿勢の危うさをしる。 もちろん民間療法の危うさも同じく知る。 ありとあらゆる何万、何十万という資料を読みあさり(大げさ)、さまざまな声(医者の本音、患者の体験談)を聞くうちに、次第に情報は立体的になり、信じられるものと信じられないものがくっきりと浮き出てくる。 おおきな上昇をしめす右上がりのグラフを拡大したときに、実はきれいな直線や放物線でなく、ぎざぎざの線だった場合、ある一部分のみをみたときにそれは下降を示すかもしれないが、全体像をとらえられていればその下降の持つ意味を理解できるように、そうして浮き上がってきた実像というのはかけがえのない財産である。 そして結局、自分で感じ、自分で考えないとだめだということを思い知ることになる。 医者だろうが、ヨギだろうが、うさんくさいやつはうさんくさいし、すばらしいひとはすばらしい。 自分にない知識を持つ人を、自分のしらない分野を、無条件で信頼したりのっかったりするんでなくて、できるかぎり自分でも智慧をつけ、またそういうものを見抜く眼力をつけ、しっかりと自分の意志をからめていかないとだめだ。 そうした眼力というのはなにによって養われるかといったら、やはりそれまでのそうして得てきた智慧に他ならず、その智慧はどんどんどんどん積み重なり、どんどんどんどんべき乗で増えていくものなのだから、やりはじめなきゃいつまでもゼロのままだし、一度動き出せば爆発的に増えていく、だからこそ、こういう無視できないきっかけ、やむをえないモチベってのはとっても貴重なものだなとおもう。 安定した状態にプラスアルファってのは、人間なかなかできるもんじゃない。 マイナスからフラットに戻そうという力が、心の弱い俗人にはどうしても必要なのだ。  自らの不幸な体験がきっかけで、同じように苦しむ人を救おうとがんばって多大な功績を残した人が多いのは当然のことなのだ。  事故や、災害や予想もしない不幸など、これから先なにがおこっても、そりゃ当然つらさや苦しさが心のほとんどをしめるのが本当だろうけども、しかしどこかで、本心からそういう風に「ありがたい勉強のチャンスをもらったぞ」と感じることができればいいなとおもう。

2004-11-14-SUN

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