No.839 非礼

非礼とは天に対し己の力を過信した者の行いをいう。

なるほどまさにそのとおりだわ。 なぜ自分のなかで、肯定できる礼儀知らずな態度と反省すべき礼儀知らずな態度の2つが存在し得ていたかがこれでようやく釈然とした。 礼というのがそもそも、人や事物そのものに対してや、まして形式に過ぎないものでなど決してなく、その対象が天であり、そしてその是非が自己審査によるものだとすれば、当然複雑な行程を経て、己の行いを非礼だという者に対して不当な非難だと不満がでることもあれば、指摘などなくとも勝手に傷つくことだって大いにあり得るわけだ。 通常いわれる礼儀とはそんな根本的なところをまったく無視した、ただ年長者を形式的に敬えばいいだとか、へりくだることの美徳だとか、そういう愚にも付かない形骸化した気持ちの悪いサークル活動みたいなもので、だから今度はその同じくだらないレベルで反骨精神を育てる本質的礼儀知らずともかぶってきてしまう馬鹿(思春期の暴れん坊や引きこもり、その進行形青年中年)がでてきて、しっかり考えて、本質的礼儀を重んじた上であえて世の中に対して「礼儀知らずフェイク」を運用することで本質的な「礼」を模索しても、さきほどの馬鹿と同様の本当の礼儀知らずとして扱われてしまって、面白くない思いをする。 自分が誤解して見られて面白くないというよりも、そんなことも見抜けないでひたすら形だけを追い求める人たちに絶望する。

不敵で挑発的な愛嬌(これこそがまっこと愛すべきものなのに!)が苦手な人というのは、とにかく形式を重んじ、ドグマティズムに溺れ、礼を重んじるはずがどんどん礼を軽んじることになっていく。 心にもない敬称やへりくだりに一体いかほどの尊敬がこめられているというのか?(尊敬の象徴が実は侮蔑の、憎しみの記号に移り変わる瞬間をことごとく見逃しているのだろう、あわれ) そんなものよりもそのニンゲンのまなこが、表情筋の1/1000秒の痙攣が、どれほど真実を語っているだろうか。  そしてそのフシアナ氏はといえば平気で車からタバコを投げ捨てたりしているのだ。 「マナー」というのは、便宜的「お作法」に成り下がっているものもあるにしても、しかし本来的にはマナーとはルールに対する忠誠などでは決してなく、「自然」に対する偽りのかけらもない「礼儀」なのだとおもう。 土に還るだとか、全体に対してあまりに小さいものだとか、そんな物質的なことは問題ではない。 自らが「ゴミ」とみなしたものを、「捨てるべきでないと認めている場所」に捨てるその「過信」こそが問題なのだ。 その過信はやがて全てにつながることはいうまでもないのだ。 醜く嘘くさい謙遜と、コミュニケーションをいびつなものにする敬語が、本来結びつくはずのない「過信」の良き交通手段・餌となって、そして目も当てられない「非礼」が増殖していく。 ぐひゃ。

2004-12-14-TUE

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