No.855 朝御飯のような夕御飯

早朝ヨガがいまいち気持よくない、というか気持ち悪い。 こういうときは神経がおかしいときだ。 気圧の関係かなにかしらんが、全身の筋肉がへんに痛く、胃も、胃そのものじゃなく神経が弱っているとき特有のもたつきがある。 で、去年、一昨年の日記をみると、毎年12月30日は決まってこの不具合を感じていることがわかり、ちょっとおもしろくなった。 なにかあるんだろうな、この日特有の気の流れとか万有引力の相互の影響だとかいろいろなことが。 で、次の日は比較的元気になっているみたいなので、安心してこの不調を楽しんでやるとおもえる。 こういう風に日記ってのはデータになる。   今日もドンキーをちょっとだけ遊んで満足し、よしもとの続きを読んで、眠くなってきた頃にさぽさんから電話がはいり、迎えにいき、コヤマ、南ジャスと買い物して、家に帰る。 体調にリンクして、どうしてもテンションはあがらない。 神経が鈍っているので考えに切れがないから黙ってることになるのね。  家に帰って一休みして、夕御飯。 ふたりとも特に食べたいものが思いつかなかったので、納豆とみそ汁と豆腐とキャベツという、朝御飯のようなものにしてみた。 しかしこれが想像以上においしくて、この上ないご馳走のように感じてしまって、ふたりともまさにこういう食事がしたかったんだと気づく。 一個一個が変なもの一切使っていない、ちゃんとしたおいしさをもつものなので、集中して楽しんでありがたい気持ちで食べると、体中がうれしい気持ちでいっぱいになる。 肉とか油なんかひとつもなくても、十分な満足感が得られる体になってきた。 美女をはべらせて、高級車にのって、でかい家に住んで、湯水のごとく金を使うことにさほど価値を見いだせないのと同様に、以前はごちそうと呼んでいたような食事には魅力を感じなくなってきた。 ぼくはこのことは少なくともぼくにとってはものすごくいいことだと思っている。 考えと、気持ちと、行動とが、どんどん一致していっている。  そしてこれが不思議なんだけど、無理していないからこそ、たまのご馳走(以前の価値観でのご馳走)を素直に楽しむことができる。 たまのご馳走を楽しめる(つまりは妥協を前向きによしとする)ことについての明確な理由はないのだけど、でも自分的にこれは自然なことでよろこぶべきことだと、ごまかしや嘘ではなく思えている。 後ろめたいからこそ得られる快楽というのはかけがいのない喜び、エネルギーであって、そういう残酷さとか 原罪みたいなものに蓋をするべきじゃないとおもうのだ、何事に対しても。  食後、コヤマで買ったシメイビールを飲みながら、昨日借りてきたもう一本のDVDをみるが、これがびっくりするほどおもしろくなくて、貴重な2時間を奪われた悲しみでふたり泣き寝入り。 映画のジャケ借りはやっぱり相当リスキーだ。 5年ぶりぐらいにはずしたわ。

2004-12-30-THU

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